一億総活躍をなすのと、社会の中にある分断や格差や差別―正と負を反転させる

 一億総活躍をなす。人々がみなもれなく活躍するあり方になるようにする。この活躍についてを、正と負に分けて見てみたい。

 社会には秩序がある。その秩序の中では差別がおきてしまう。あつかいに不平等がおきたり、階層化されてしまったりする。経済でいうと、みんながお金持ちなのが現実ではないし、みんなが貧乏なのが現実でもない。そこには正当化や合理化することができない格差がある。

 社会の中には活躍できている人とできていない人がいて、正と負に分かれている。この正と負がそのままで固定化しているのが社会の秩序だ。流動化しづらい。これが流動化することで、正と負の区別がなくなったり、それが反転したりする。

 正は正で、負は負で、お互いに没交渉のようになってしまうと、分断がおきていることをあらわす。分断があることによって社会の持続性が損なわれかねない。社会の中の矛盾が大きくなって不安定になる。これは格差極悪論による見なし方だ。

 一億総活躍といったさいに、正と負とが互いにもれなく活躍するというとらえ方は適していないのではないだろうか。これだと、日ごろから正と負とのあいだにある差別がないことになってしまい、欺まんとなる。

 ふだんの正と負の差をくみ入れるようにして、自明とされている正の活躍と負の不活躍を逆にして、交代させるようにする。さしあたって正を脱中心化させて、負を中心化させて活躍させるようにする。そのことをもってして、正のおかしさや誤りをおもてにあらわすようにして行く。そうするようにすることで、おかしいところや誤りを修正して行き、のぞましいあり方を探る。

 中心の活躍と、周縁や辺境の不活躍が、正と負の関係になっているとすると、それを逆にして交代させるようにする。思い切ったやり方としては、正を負にして、負を正にする。秩序によって固定化しているのを流動化するようにして行く。

 ほかにも色々な見かたややり方があるだろうが、社会の中にある正と負という差別に目を向けるようにして、そのちがいを変えるようにして、中心にあるものは脱中心化して、中心にないものは中心化する。活躍と不活躍を転じさせるようにするのはどうだろうか。それをやるとしても、それをさせないように押しとどめているのが、正と負の固定的な差別ということになる。

 多かれ少なかれ、秩序が保たれているとすれば、そこによかれ悪しかれ(ていどのちがいはあったとしても)差別があることになるから、それがすぐさま悪いということには必ずしもならないのはあるかもしれない。差別があってそのままでよいのかといえばそうではなくて、そこからくる乱雑さ(エントロピー)を外に吐き出して行かないとならず、そのためにあるのがケとハレだ。日常と非日常である。季節でいうと冬と春(夏)の交代である。冬来たりなば春遠からじということで、冬が去って春が来たら、入れ替わったことを祝うわけである。

 参照文献 『寺山修司の世界』風馬の会編 『弱者の居場所がない社会 貧困・格差と社会的包摂』阿部彩(あべあや) 『分断社会ニッポン』井手英策 前原誠司 佐藤優