反日や売国と、国や社会の中の呪われた部分―日本の国がもつ過剰性の活力と振り子の両極性

 反日売国に当てはまるものがある。それらは、日本の国をおとしめることになることというよりも、日本の国にとって呪われた部分に当たることなのではないだろうか。

 日本の国にとって呪われた部分に当たるのが、反日売国とされるものである。なぜ日本の国にとって呪われた部分に当たるものがあるのかというと、それは日本の国が過剰性の活力をもつからだ。

 日本の国がもつ過剰性は活力をもつが、その活力が正と出るばかりではなくて、負と出ることがある。その負と出たものが呪われた部分である。正のところだけを見ようとするのは、呪われた部分の否定であり隠ぺいだ。

 反日売国とされるものは呪われた部分に当たるが、それらと向き合うようにするのはどうだろうか。それらと向き合うようにすることによって、日本の国の問題や危機を乗り越えることにつなげられる。

 反日売国とされるものと向き合うようにすることは現実に根ざしたものだ。それを避けようとすることは非現実だ。非現実だというのは、限定されたあり方になっているためである。正のところだけを見て、負のところを見ていないので、限定されている。負のところをくみ入れるようにすることで、限定されたあり方から脱せられて、現実に根ざしたものになることができる。

 正は愛国で、負は反日売国であるとすると、正よりも負のほうがむしろ大切だということがなりたつ。負となるものがなければ正もまたない。負となるものがあることによって、正となるものがあることを支えている。

 正である愛国のものだけをとるのは限定されたあり方であって、二つの極があるうちの一つの極だけによっている。もう一つの極に当たるのが負のものである。この二つの極は振り子のように振れることになる。正である愛国だけによるのは、振り子が一つの極だけにとどまろうとするものであって、振り子を振れさせないようにすることだ。

 一つの極だけにとどまろうとして、振り子を振れさせないようにするのは、国家主義による虚偽意識であるということが言えるだろう。その虚偽意識によっていたのが戦前や戦時中の日本であって、戦争に負けることによって神風神話の物語が破綻した。それが破綻したのは、一つの極だけによろうとしたことが大きい。限定されたあり方になっていて、無理が大きすぎた。

 戦前や戦時中の日本がしでかした失敗から教訓を引き出せるとすれば、こう言うことが言えるだろう。正である愛国によるだけではなくて、負である国や社会の中の呪われた部分に十分に目を向けないとならない。一つだけではなくて二つの極によるようにしないとならない。一つの極にとどまりつづけようとして、振り子を振れさせないようにするのは、限定されたあり方におちいっているので、もう一つの極に大きく振れる危なさがある。愛国は物語であるし、反日売国も物語だが、それらを包摂した日本の国という物語そのものが崩壊したら元も子もない。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明