自虐と反日と失敗情報の値うち

 自虐は反日だ。誇りをもつのは愛国だ。ツイッターのツイートでそう言われていた。自虐の思想や史観は日本という国にあるまじきことで、誇りをもつのが日本の国にふさわしいことだということだろう。

 日本の国というのは表象(リプレゼンテーション)であるもので、直接に日本そのものをとらえることはできづらい。間接のものにとどまる。その間接のものである表象としての日本の国は、誇りをもつべきよいものであるというふうに基礎づけすることはできづらい。単一のものとは言えないし、同一のものとも言えそうにない。

 日本の国は誇りをもつべきもので、よいものだとすると、自然主義の誤びゅうにおちいる。日本の国という事実から、誇りをもつべきだとかよいとかいうことは導けるものではない。それを導いてしまうと、かくある(is)からかくあるべき(ought)を導くことになってしまう。

 日本の国の表象をどうとらえることがふさわしいのかというと、人それぞれということが言えるし、時代ごとにちがうということができる。横で見ると、人それぞれで日本がよいとか悪いとかと色々な受けとり方が成り立つ。縦で見ると、時代ごとに日本はとても悪かったりそこそこによかったりというちがいがある。それらをすべて一まとめにして、日本の国の表象について、誇りをもつべきだとかよいとかいうことは言えそうにない。

 横で見れば、人それぞれによってよいとか悪いとかがさまざまだ。縦で見れば、時代ごとにとてもひどいときがあったし、まあまあよいときもある。それらを別々のものとして見るようにすれば、空間や時間として分けて見られる。いくつもの要素に分解して日本の国の表象をとらえられる。

 いくつもの要素に分けて見ることによって、一つの日本という国の表象にしたて上げてしまうことを防ぐのに役立つ。視点を一つに固定化するのではなく、いくつもの見かたに多様化できる。見かたが増えたほうが実像により近づきやすい。

 はたして、自虐は反日で、誇りをもつことは愛国というのは、いついかなるさいにもふさわしいのだろうか。自虐や反日と、誇りをもつことと愛国には、含意がある。正と負の両面をもつ。

 自虐や反日が正になって、誇りをもつことと愛国が負になることがある。そうなるのは、脱構築によって、階層秩序の二項対立を反転させることができることによる。

 自虐や反日は悪いもので、誇りをもつことと愛国はよいものだと固定化してしまうと、階層(クラス)化がおきる。この階層の秩序による二項対立が固定化してしまうのはまずい。

 自虐や反日は、日本の国がかかえる悪いものと向き合い、それを吐き出すものとしてはたらく。これをとらないで、誇りをもつことと愛国だけをよしとしてとるだけだと、日本の国がかかえる悪いものがいつまでも吐き出されずに、どんどんとたまっていってしまう。

 いつも変わることなく自虐や反日でありつづけなくてもよいが、いつも誇りをもつ愛国でありつづけるのはよくないことだ。悪いところは悪いというふうに認めて、たとえ自虐や反日になろうとも、悪いところと向き合うようにすることはいることだ。

 過去や現在に引きおこした日本の負のことや、未来に危ぶまれる日本の国の悪いところについては、失敗情報をなかったことにしたり隠したりするのではなくて、それを明るみにしておもてにあらわにすることが有益だ。

 自虐や反日と、誇りをもつことと愛国とは、(誇りをもつのや愛国からすれば)敵と味方というふうに分かれる。敵をしりぞけて、味方だけで固まるのは、国家主義による分断だ。戦前や戦時中には、非国民ということで、国内外の敵がしりぞけられて排斥された。それで日本は国として滅亡の手まえまで行った。

 日本が国として滅亡しかねないと言うと大げさな言いかたになってしまうが、さまざまなものが複合にはたらいて崩壊しないとはかぎらない。そうならないようにするには、敵と味方ということで、国家主義によって分断するのではないようにしたい。敵と味方といったような、お互いに距離があって離れている者どうしにおいて、敵をもてなすというよき歓待(ホスピタリティ)が必要だ。敵などの遠く離れた者を、よき歓待によって客むかえをすることは、できづらいものであるだけに大切だ。

 参照文献 『図解雑学 失敗学』畑村洋太郎現代思想を読む事典』今村仁司編 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 「ナショナリズムカニバリズム」(「現代思想」一九九一年二月号)今村仁司寺山修司の世界』風馬の会編 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『勝つための論文の書き方』鹿島茂 『逆説の法則』西成活裕脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『よく解る ニッポン崩壊地図入門 壊れてゆくニッポン』高田明