桜を見る会とその前夜祭と、大きな物語と小さな物語―日本の政治において大きな物語が成り立ちづらくなっていることの入れ子の構造

 桜を見る会とその前夜祭は、大きな問題と言えるのか、それともそれほど大したことではないのか。大きいか小さいかということでは、大きいとも言えるし小さいとも言えるのかもしれない。

 大きいことか小さいことかというのは、どちらとも見られるのがあるような気がするので、一方だけが正しいのではないと見なせる。それと共に、それだけではなくて、ほかのこともまたそれと似たような見なし方がなりたつ。

 大きい物語と小さい物語の図式に当てはめてみると、大きい物語が通用しなくなっていて、小さい物語となっている。桜を見る会とその前夜祭についてもそれを当てはめられるけど、それだけではなくて、政治のほかのことがらにもまたそれを当てはめて見られる。

 いまは与党である自由民主党が数の力を多くもっているが、これについても、大きな物語ではなくて、小さな物語として見なせる。それというのも、もしもいまの時の政権を甘く見なすのではなくて、きびしく権力チェックするとすれば、そんなに強い力をもてず、力を失うことになる。

 選挙の制度では、小選挙区制がとられているが、これは勝者を上げ底にする仕組みだとされる。勝者があたかも大きな力をもっているかのようにさせるものである。だから、勝者がもつ力は、現実そのものであるというよりも、虚構である部分を含みもつ。

 政治家を選ぶ選ばれ方が、ほんとうに適正なあり方だとは言えそうにない。選ばれ方の中に色々な問題があると見なせるが、それが問題化されることがほとんどないし、とりあげられることがあまりない。それは、その選ばれ方で選ばれた政治家が権力を握っているからなのが大きい。

 民主主義がしっかりとはたらくためには、報道や分析がしっかりと行なわれないとならないけど、いまの日本の社会ではこれがおぼつかない。きびし目に見ればかなりたよりないものになってしまっている。時の政治の権力からの圧力に弱い。報道の自由では、世界の中で上位に日本はあるとは言えず、(順位が)後退してしまっているところがある。

 あたかも大きな物語であるかのように見えるのだとしても、じっさいには、政治のあり方は小さい物語となっている。色々なものをさし引いて見てみると、大きな物語と言えるほどのものではなくて、確固とした足場にもとづいているとまでは言えそうにはない。あんがい足場が弱いというか、そこに穴が空いている。その穴にフタがされていて、改めて見てみないとそれに気がつかない。表面をちょっとだけ(掘り下げることなく)すっと見るだけだと、あたかも大きな物語が通用しているかのようではあるが、じっさいにはそうではないのではないかという気がしてならない。

 参照文献 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司