アメリカの大統領への信頼と、報道機関への不信―信頼つまり枠組みや価値の共有

 アメリカのドナルド・トランプ大統領は正しい。それにたいして報道機関はまちがっている。報道機関の報じることにはかたよりが大きい。アメリカでトランプ大統領のことを支持する支持者はそうしたあり方をしているようである。このあり方はふさわしいものだと言えるのだろうか。

 たしかに、報道機関の報じることにはかたよりがあることはまぬがれそうにない。それを理想論と現実論に分けて見られるとすると、現実においてはいろいろな制約がかかってくるのでかたよることになる。まったく何の制約もなければかたよりはおきないだろうが、それは理想論にとどまる。時間や労力や資金などの資源の制約があるために、効率性をとることになり、適正さを欠く。経済性の省力性の原理がはたらく。効率性と適正さとのあいだのつり合いやかね合いがむずかしい。

 トランプ大統領のことを信頼して、報道機関に不信感をもつ。これはトランプ大統領の枠組みと支持者の枠組みがお互いに合わさっていることを示す。報道機関の枠組みとは合わさっていなくてずれがある。おたがいの価値が合わさっているかずれているかのちがいだ。価値をお互いに共有し合う者どうしだと息が合うが、それがずれていると息が合わない。

 トランプ大統領と報道機関についてを一か〇かや白か黒かの二分法で見る。味方と敵の友敵理論で見なす。そう見なすと、報道機関のことを否定することの反動がおきて、トランプ大統領の言うことをそのまま丸ごとうのみにすることになる。そうすると距離や間合いがとれなくなり、まひさせられてしまう。

 政治の権力者の言っていることをそのまま丸ごとうのみにするのはのぞましいことだとは言えそうにない。それだと権力チェックができなくなる。日本の戦前や戦時中に行なわれていた大本営発表と同じようになる。抑制と均衡(checks and balances)がききづらい。

 日本の戦前や戦時中の天皇制では、天皇は生きている神だとされた。天皇は絶対的に権威化された超越の他者だった。それによって天皇の言うことをそのまま丸ごとうのみにさせられた。天皇と国民(臣民)とのあいだの距離や間合いがまったくなくなり、国民はほぼ完全にといってよいほどにまひさせられていたことはうたがえそうにない。

 お上(かみ)のことをあたかも天使のようなものとして上に持ち上げてしまいすぎると、あたかも完全にきれいで純粋なものだと見なしてしまう。それは修辞(rhetoric)によるのにほかならず、じっさいには人間には汚いところがつきまとう。その汚さはていどのちがいといってよいものだろう。多かれ少なかれ政治家の発する情報の中には汚れが含まれることになり、嘘をつく。政治家は国民の表象(representation)であり、置き換えられたものだからだ。中にはとんでもなく汚くて嘘だらけなこともあるわけだが。

 天使のように完全にきれいで純粋なものであるとするのとは別に、いちおうは選挙によって選ばれているのなら形式の正当性があるのはたしかだ。それは半分の正しさがあることを示す。全面として正しいのではない。歴史においてはドイツのアドルフ・ヒトラーは民主主義の選挙によって選ばれたのがあるから、たとえ選挙によって選ばれているのだとしても全面として正しいものだとすることはできないものだろう。

 法学者のハンス・ケルゼン氏は、民主主義は政治における相対主義の表現であると言っているという。このことからすると、たとえ選挙で選ばれて国の長になったのだとしても、それだからといって絶対的にまったくもって正しいのだと見なすことはできづらい。半分くらいは正しいのはあるが、国の長にはいついかなるさいにも国民にたいする説明責任(accountability)を果たすことが求められる。国民にたいして質と量がともにきちんとした説明責任を果たす。それができないのであれば地位を退く。ほかの人にゆずる。それが結果にたいして責任をとることになり、知の誠実さがあることになる。自由民主主義(liberal democracy)の競争性と包摂性においていることだ。

 お上の言っていることをそのまま丸ごとうのみにしてしまうと大本営発表のようになってしまうから、それを避けるようにして、お上にたいして距離や間合いをとるようにしたい。そうしないとまひさせられてしまう。それによって陶酔してしまうのではなくて、そこから目ざめることが必要だろう。

 日本においては、国家主義(nationalism、または ultra-nationalism、extreme-nationalism)による陶酔から一時的にではあったにせよ目が覚めることになったのが敗戦したときであり、ふたたび国家主義による陶酔がおきないように気をつけて行きたい。国家主義による陶酔はかんたんにおきてしまいやすく、気を抜いているとまひさせられやすい。政治の権力の虚偽意識による呼びかけにすなおに応じる自発の服従の主体が形づくられる。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『情報政治学講義』高瀬淳一 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)