反安倍は、たんに反安倍でしかないだけなのか―具体としての政権と、任意としての政権

 反安倍というのは、いまの時の政権を批判する人のことを言う。反安倍と言うのだと、時の政権が安倍晋三首相によるのでないとならないが、それは必須によるものだ。そうではなくて、任意によることからの批判もなりたつだろう。

 法の決まりというのは、任意によってなりたっているという。嘘をついてはいけないという決まりがあるとすれば、そこでは任意であることがとられている。そこに具体の人名などを入れないで、一般化されている。安倍首相は嘘をついてはいけないというのだと、必須である。これは法の決まりのあり方としてはそぐわない。

 反安倍ということで、いまの時の政権のことをとくに批判しているのではなくて、任意の政権を批判しているということもまたなりたつことだろう。具体の安倍首相による政権が、ということではなくて、任意の政権があることを言ったりやったりしたことにたいして批判を行なう。それは反安倍というのとはやや異なっている。

 安倍首相による政権で許されることなのであれば、ほかの任意の政権でも許されるのでないとならないし、ほかの任意の政権で許されないことなのであれば、安倍首相による政権でも許されないのでないとならない。そういうように、普遍化や一般化をして行くようにしていって、それができないことをしないようにしないとならない。それができないことというのは、普遍化できない差別(特別あつかい)だ。

 普遍化できない差別である特別あつかいをしてはならないというのは、自由主義から言えることであって、それにたいして批判を投げかけることは反安倍というのとはちがうことだと見なせるものである。その中には反安倍ということもまた含まれるのはあるかもしれないが、いわばその反安倍というのは必要条件となるものではあっても、十分条件になるものではなくて、反安倍ということだけを意味するものだとは言えそうになく、それを含み持ちつつもそれを超え出るものだとも言える。

 いまの時の政権にたいして批判を投げかけるのは、たんに反安倍ということだけだとは言い切れないのだから、そうであるだけだと見なすのはわい小化することになる。反安倍というのは、そこに具体の人名(安倍首相の名前)が入ってしまっていることから、それによってかえって見落としてしまうことがおきてくる。

 反安倍というのは、具体の人名が当てはまるのではなくて、そこに任意のものが当てはまるというふうに見られるから、その任意性や恣意(しい)性や偶有性のところに重きを置ける。そこに重きを置くのであれば、反安倍というのは、(それが本当に当たっているかはともかくとして)政治における悪いことにたいする批判を投げかけるということになる。

 任意性ということであれば、必須つまり具体ではないのだから、政治における悪いことの一般にたいする批判ということをあらわす。ある任意の政権が悪いことをしたとされることにたいする批判だ。だから、任意つまり一般であり必須つまり具体でもあるという二重性をもつ。

 参照文献 『キヨミズ准教授の法学入門』木村草太 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫