知らないうちに深刻度が増しているおそれがある、情報の汚染のていど―自浄作用がなく、汚染が加速していて、止め役(反対勢力)の力が足りていない

 政治の権力が発する情報は汚染されている。もしそれが汚染されていないのだとすれば、そのままうのみにして受けとれるが、それはできないのが現実だ。

 政治の権力や、それをよしとする大手の報道機関が発する情報は、少なからず汚染されているのだと言わざるをえない。この汚染というのは、情報に送り手の意図が入りこんでいるものをさす。

 情報が少なからず汚染されているから批判しないとならないのだが、それをになうのは政治の権力にたいする反対勢力だ。この反対勢力が抑圧されていると、政治の権力による情報の汚染がひどくなって、汚染の度合いが増して行く。

 政治の権力が自分たちで自浄作用をもつことは見こみづらい。自浄作用をもつことは見こみづらいので、ほうっておくと情報の汚染の度合いが増して行きかねず、腐敗が進んで行きかねない。

 政治の権力や、それをよしとする大手の報道機関が、自分たちで情報の汚染をきれいにして減らして行くことは見こみづらく、それをになう役はまた別にいる。そのにない手となるのが反対勢力だが、これは二分法が当てはまるものだとは言えず、反対勢力もまた少なからず情報の汚染があることはまぬがれない。

 二分法は当てはまらず、ていどのちがいにすぎないのはあるが、政治の権力の情報の汚染のていどがひどくなりすぎるとまずい。嘘が平気でまかり通るようになってしまう。

 たとえていうと、ドブ川のヘドロのような汚れとなっていると、政治の権力が発する情報はひどく汚染されていることになる。どれくらい汚いかというのは人それぞれによってちがう認識になるのはあるだろう。とんでもなく汚れているか、それともそこまで汚れてはいないかというちがいがあるし、汚れに敏感か鈍感かがある。汚れに慣れ切ってしまえば、それがふつうになるから、とくに何も感じなくなる。汚れに不感症になる。

 気がつかないうちに、いつのまにかドブ川のヘドロのようなひどい汚れとなっているのが、いまの日本の社会における政治や報道の状況なのではないだろうか。その中で、その汚れを何とかしてきれいにしようとして力を出している反対勢力は一部にはいるが、その力は全体からすると弱いと言わざるをえない。微力だ。それくらいに汚れの進み方がはやくて、汚れの力のほうがより上回っている。汚染力が高い。浄化力が間に合っていない。

 ドブ川のヘドロのようにひどい汚れだと言ってしまうと、言いすぎになっているのはまちがいがない。主観が入りこんでいることは疑いがないが、そのようなドブ川のヘドロのようなあり方が、さもきれいな水であるかのごとく思いこまされているところがあって、さもきれいな水ですよといったふうにして情報が流通されてしまっている。

 情報が汚れているかきれいかというのは、たとえによるものだから、じっさいに物理的に汚れているのではないために、汚いものでもきれいなものだと受けとることがおきがちだ。それに、多かれ少なかれすべての情報は汚いものであって、汚染されているのがあるから、それもまたやっかいだ。

 たとえば、川の水でいうと、いっけんするときれいな水が流れているようでいても、そうではないことがある。ほんとうにきれいな水が流れていると言えるのは、自然のままに近い有機的なもののことだが、そうしたものはいまの日本の国の中にはほぼ無い。何らかの形で汚染されていたり人工化されていたりする。無駄な公共事業などで、自然が破壊されてしまっているためである。情報もまたそれと似たようなのがあって、何らかの形で汚染されていたり人工化されていたりするので、ゆがんでいる(自然なままではない)。

 参照文献 『情報汚染の時代』高田明典(あきのり) 『寺山修司の世界』風馬の会編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『日本語の二一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『川を考える』野田知佑(ともすけ) 藤門弘(ふじかどひろし)