過剰に警戒しすぎるせいで、国民のためになっていないことが危ぶまれる、いまの時の政権―二種類の質問

 時の政権へ、質問をする。国会では、野党からの質問に答える義務が時の政権には課せられている。

 このさいの質問というのには大きく二つある。ただたんに情報を求めるものと、(質問を投げかける側に)こんたんがあるものとだ。こんたんがあるものというのは、すでにあらかじめ答えが決まっている、修辞疑問がその代表だ。すでにあらかじめ答えが決まっている問いかけを投げかけるのだ。

 自由民主党による、いまの首相による時の政権は、政権に投げかけられるきびしめの問いかけを、修辞疑問として受けとりすぎているのではないだろうか。中にはただたんに情報を求める問いかけが少なからずあるのにも関わらず、それにまともに答えないことが多くおきている。

 政権への問いかけというのは、国民の知る権利を満たすために、政権がきちんと答えないとならないものが少なくはない。それを、政権は先入見や予断をもってして、修辞疑問であるという受けとり方をしすぎなのだ。

 政権に投げかけられた問いかけのうちで、それがただたんに情報を求めるものなのか、それともこんたんがあるものなのかは、はっきりとは分けづらいのがある。それで、いまの首相による時の政権は、政権に少しでも厳しい問いかけであれば、それをこんたんをもった修辞疑問だと見なしがちだ。

 政権にとって厳しい質問であったとしても、国民の知る権利を満たすために必要なものはあるのだから、たとえ政権にとって不利になるのだとしてもそれを政権は許容してできるだけまともに答えることがいる。国民にもっと情報を開示するようにしないと、まともな民主主義はのぞめそうにない。

 参照文献 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』香西秀信