正義の単一化と複数化―正義や当為と紛争(闘争)

 こうであるべきことが、こうはなっていない。またはたんに、こうするべきだとか、こうあるべきだ。そうしたことは正義や当為(ゾルレン)である。

 正義や当為というのは、ある前提条件をもとにしたものと、その前提条件そのものを見て行くようなものとがある。それ以外にも色々とあるかもしれない。

 あるべきことが、そうはなっていないというさいに、正義が問われることになるが、正しさというのはものさしや道具であって、絶対のものとは言えず、相対のものにとどまるのがある。

 正義を持ち出すさいに、ある前提条件がとられることになるが、その前提条件を当然のことだとか自明なことだとしているとしても、それについてを疑うことがなりたつ。当然ではないとか自明ではないというふうにできる。そういうふうにできるのはあるが、そのようにすることが、まちがいのない絶対の正義だとまでは言えず、相対のものであるのもまたある。

 たとえば、いまとり沙汰されている、桜を見る会のような、最優先にできるくらいに重要だとまでは必ずしも言えないようなことを、国の政治において大きく取り上げることがはたしてふさわしいことなのかというのがある。そこには賛否の声があるのは確かだ。

 桜を見る会のような、最優先にできるくらいに重要だとまでは必ずしも言えないようなことを大きくとり上げるのではなくて、もっと国にとって重要なことがらを国の政治でとり上げるべきだというのは、一つの正義ではある。ただこの正義は、いまの時の政権がきちんとしたことができるとか、きちんとしたことをやってくれるとか、きちんとものごとを進められるという前提条件をとっているのがあるから、その前提条件そのものを疑えるのである。その前提条件そのものが疑わしいので、それを疑うのもまた(相対的なものではあるにせよ)一つの正義だ。

 どうあるべきだとか、どうあるべきではないのかという正義や当為については、色々と言えるのがある。そのさいには、そこでとられている前提条件そのものを疑えるというのがあって、そこでそれぞれの人の意見のちがいから、正義どうしの次元がかみ合わなかったり、ぶつかり合ったりしてしまうことがある。

 社会の中で正義というのは接着剤のような働きをするもので、くっつけ合うようなものだとされるが、その力が弱まっていて、とくに国の政治において不正義が横行してしまっている。

 社会の中における信頼ということが崩れていることによる。いまの時の政権に信頼を寄せる人もいれば、不信を抱く人もいて、まちまちとなっている。数としては信頼を寄せる人が多いかもしれないが、その信頼というのも濃いものから薄いものまでさまざまにあるものだろう。

 正義どうしがぶつかり合いになるさいに、紛争がおきることになる。その紛争をどうするかというさいに、民主的な開かれた議論が行なわれることがのぞましい。それがのぞましいとするのもまた一つの正義にはちがいなく、絶対のものではなくて相対のものにとどまるのはあるかもしれない。そうなってしまうと、ちがう正義どうしで次元の食いちがいやずれがおきることになる。そうではあるものの、紛争を力づくでねじ伏せたり、数の力にものを言わせて何とかしたりするのはふさわしいことだとは見なしづらい。

 お互いに、まともに向き合わないで話もし合わないのでは、不信を抱き合うことでしかない。そうなってしまう現実というのもあるのは確かだが、それをそのままにしておくのは、それそのものが正義ではないというのがある。

 まともに話もできないくらいに深い不信をお互いに持ち合ってしまうのでは社会がなりたたない。お互いの正義がぶつかり合って敵対し合ったままになる。それは何とかされないとならないのである。限定的なものであるにせよ、解決が探られることが欠かせない。解決を探るためには、もっぱら力を持つ者(政治であれば数的強者)が、おごりを捨ててゆずるようにすることがいる。

 最低限の信頼まで持てないような、不信が深まるあり方を改めるようにして、せめて最低限の信頼くらいは持てるようにして、話し合いや議論ができるようになるのがよい。いまのところ、日本の国の政治では、その最低限の信頼すら崩れてしまっているように見えるのがあって、それはもっぱらいまの与党つまり強者の責任だ(絶対の悪とまでは言えないが)。人というよりも構造の問題もまた大きい。

 参照文献 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう) 『靖国史観』小島毅(つよし) 『リベラルアーツの学び 理系的思考のすすめ』芳沢(よしざわ)光雄 『現代思想を読む事典』今村仁司