裁判所から、賠償金を支払うことを命じられる。そのお金を支払うのをこばむ。支払わないとならないのは、法の決まりによることだけど、その法が悪いのだから、支払うことはいらないのだという。悪法だから、それに従うこと(つまりお金を支払うこと)はいらないというのだ。
たとえ裁判所からお金を支払えと命じられたとしても、それが悪法によるのだったら、支払わなくてもよいのだろうか。お金を支払わないのが悪いのではなくて、法のほうこそが悪いのだろうか。
裁判所からお金を支払えと命じられて、そのさいに、それにまつわる法の決まりに従うべきかどうかがある。お金を支払わなくてもよい、つまり悪法だからそれに従わなくてもよいのだとできるとは言い切れず、まずいところがまったくないとはいえそうにない。
一般に、法の決まりは、それそのものが客観に悪い法だとは言い切れそうにない。その法がすでに定められているのであれば、それが法として定められているのは事実(is)ではあるけど、その法がよいか悪いかは価値(ought)にまつわることだ。
事実として、その法がすでに定められているものだとは言えるけど、それがよいものなのか悪いものなのかは、人それぞれの価値の見なし方によってちがってくる。客観にその法がよい価値または悪い価値によるのだとは言い切れそうにない。
法の決まりには色々あるけど、その中で、たとえば憲法の九条や、消費税の決まりなんかがある。これらは、それらが事実としてすでに定められている法だとは言えるけど、それがよいものか悪いものかの価値は人それぞれだから、客観には価値を定めづらい。
憲法の九条を、よい法だと見なす人もいれば、悪い法だと見なす人もいる。消費税の法の決まりでも、それを悪い法だと見なす人もいるけど、必要悪(しかたがなく受け入れざるをえないもの)だと見なす人もいるだろう。
いきなり、すでに定められている法の決まりにたいして、それをよい法だとか悪法だと言ってしまうと、いきなり正義(かくあるべきの当為)を取ることになる。それはよい法だからあるべきだとか、それは悪い法だからあるべきではない(改めるべきだ)とかとしてしまう。
いきなり、その法の決まりにたいして、良い法だとか悪い法だとかとするのは一理あるにはあるけど、そこにまったをかけてみたい。まったをかけてみると、かくあるべきの当為(sollen)とは別に、かくあるの実在(sein)のところがあり、実在においては、その法にたいして人それぞれで色々な価値をとることがなりたつ。
価値にまつわることなのが、それがよい法か悪い法かと見なすことだ。よい法であれば従い、悪い法だったら従わないのだとするのは、どういうものさしでよし悪しを決めるのかがあいまいだ。よし悪しの決め方が不たしかである。価値についてのことであるよし悪しによるのよりも、事実によったほうがぶなんだ。
価値と事実では、事実によるようにして、それがすでに定められている法であるとはいえるのがあるから、いちおうその法の決まりに従う。遵法によるようにする。従うようにしつつ、価値については、人それぞれで自由に見なしてよいのだから、批判の声をあげるのはあってよいことだろう。
人為や人工で作られたものが法の決まりなのだから、可変性をもつ。人為や人工で構築されたものであることから、法は変えられる見こみがあるけど、それが悪い価値をもっているのかどうかは、いちがいには言い切れそうにない。
かくあるべきの当為はひとまず置いておいて、かくあるの実在のところを見てみると、たとえば、消費税なんかでは、それを必要悪だと見て、しぶしぶ受け入れる人もあんがい少なくはなさそうだ。消費税なんかでいえば、それが客観や本質に悪い価値をもっている(つまり悪法)とは言い切れないところがあるものだろう。
参照文献 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦