勝手踏み切りをわたることは重い罪なのか―交通の法規はそこまできちんと守られているのか

 わたってはいけないことになっている非公式の勝手踏み切りをわたった。そのことで共産党の議員は書類送検されたという。一年くらい前に、議員が非公式の勝手踏み切りをわたったことがいまになって罪だとされたのだ。

 全国におよそ一万七〇〇〇か所以上も非公式の勝手踏み切りがあるとされている。共産党の議員が、趣味の鉄道の写真をとるためにそこをわたったことは大きな罪だと言えるのだろうか。一年くらい前にしたあやまちが、いま大きな罪としてとり上げられることがいるのだろうか。とり上げ方に不自然なところや作為性や政治性や意図性がまったくないと言い切れるのだろうか。

 交通の法の決まりでは、車の道路の赤信号を歩行者が必ず守らなければならないのかどうかがある。たとえ赤信号になっていたとしても、車がまったく走っていないのであれば、法の決まりを守ることは必ずしもいらない。これは交通の法の決まりには違反しているが、理にはかなっているところがあり、日本ではない世界の中の少なからぬ地域で行なわれていることだろう。

 信号が赤信号だったら、それが意味する法の決まりを歩行者が必ず守らなければならないかといえば、そうとは言えないところがある。赤信号であったとしても、車がまったく走っていなければわたることがあるし、それ以外でも、交通の法の決まりがいついかなるさいにも厳密に守られているとはいえず、しばしば破られている。

 すべての人が交通の法の決まりをきっちりと守っているとは言えそうにない。日本人の中には交通の法の決まりを破る人が少なくはないが、ほかの国と比べれば、日本人はどちらかといえば交通の法の決まりを守っているほうではあるかもしれない。日本ではないほかの国のほうが、傾向としてはもっと交通の法の決まりが破られていそうである。

 あまり厳格主義(rigorism)のような形で交通の法の決まりを守ると、かえっておかしくなるところがおきてくることがある。まったく車が走っていないのにもかかわらず、赤信号であるからといって歩行者がきちんと立ち止まって待っているのは、ばからしいところがないではない。じっさいに、世界のさまざまな地域では、厳格主義の形で交通の法の決まりは守られてはいないのだとおしはかれる。柔軟性や融通がきいている。

 日本のあり方とアメリカのあり方を比べて見られると、そこにはちがいがあるのだとされる。アメリカは個人主義のところがあるために、個人の自由がよしとされていて、そのかわりに個人が自分で主体としての責任を引きうける。どういった行動を個人がとるのかは個人の自由に任されているが、そのかわりにとった行動の結果についてはきちんと個人が責任を引きうけなければならない。個人にたいして過保護ではないあり方だ。

 アメリカとはちがい、日本は個人の自由があまりよしとされていないところが強い。日本では何かと規制がつくられる。個人にたいして過保護なあり方だ。個人を保護するかわりに個人が強く監視される。これをするべからずとかあれをやるべからずといったようなことが個人にたいしていろいろに課されることになり、監視の目が光っている。

 アメリカとはちがって、日本は国民を子どもあつかいしているところがあるものだろう。こうするべきだといったことが定められていて、そのあるべき当為(sollen)が重んじられる。こうするべきとされているものと、こうである実在(sein)とがずれてしまうことがある。あるべき当為と、こうである実在とがずれることがあるから、そのさいにはその二つをすり合わせて行く。みぞを埋めるようにすることがいる。当為をゆるめて、実在に合わせるようにして、より実在に合った形の当為にすることも中にはあることがいる。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『明日(あす)は味方。 ぼくの愉快な自転車操業人生論』山本一力(いちりき) 「三島由紀夫 最後の言葉(新潮 CD)」三島由紀夫 古林尚(たかし)