二〇二一年の東京五輪の組織委員会の委員長による失言と、集団のあり方のまずさ

 議論の参加者の中に女性の数は少ないほうがよい。森喜朗氏はそうしたことを言い、日本の国内だけではなくて海外にまで波紋がおきている。このことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 日本の議論のやり方は効率が重んじられていて適正さに欠ける。効率を重んじるためには議論の参加者の中に女性の数が少ないほうがよい。そうなっているさいにそこに欠けてしまっているのが適正さだ。日本の議論のやり方のまずさを改めて行くには、効率を重んじることでよしとするのではなく、適正さを重んじて行くようにしたい。

 森氏が言ったことを集団における不祥事だと見なせるとすると、そこから見えてくることとして日本の社会の集団のあり方のまずさがある。日本の国内だけではなくて海外にまで波紋がおきるようなことをなぜ森氏は言ったのかといえば、その要因の一つとして日本の社会の集団のあり方にまずさがあるからではないだろうか。

 集団において不祥事がおきるのは、外の法の決まりと集団の内のおきてとのあいだにずれがおきていることがある。そのずれによって二重基準(double standard)が引きおこる。ずれを正す役目をになう人が集団の内にいない。ずれを正す役目をになう人が集団の内でけむたがられて排除される。悪魔の代理人(devil's advocate)となる人が集団の内にいない。ずれが正されることがないままに集団がもつ信念がどんどん補強されつづけて行く。

 集団のあり方が不健全なものになってしまうのを防ぐ。そのためには集団が外に開かれるようにして透明性をもつようにしたい。社会関係(public relations)を築くようにして外にたいして説明責任(accountability)を果たして行く。

 集団の内のおきてがまちがっていることがあるから、それが正されるためには集団の外にたいして開かれていることがいる。集団の内のおきてによる正しさが、集団の外から見たらまちがっていることがあるから、それがたえず修正される機会をもつようにして行く。

 まちがったおきてが集団の内でとられていると、そのおきてを守りつづけていればそれでよいことにはなりづらい。集団の外とのあいだにずれがおきてしまうことから、集団の中でよしとされている人であったとしても、集団の外から見ればまたちがった見かたがなりたつ。

 交通の点でいえるとすると、集団の内と外とは反交通になっているところがある。集団の内と外とを分けて、外を排除する。選ばれた人しか集団の内には入れないし、集団の内でさらに上に立つ人が選ばれる。そのさいに反交通になっていることがあだにはたらいてしまい、集団の外から見たらおかしいと見なせる人が集団の内で上に立ってしまう。そうした現象がおきてくる。悪貨は良貨を駆逐するといったようなグレシャムの法則ピーターの法則がはたらく。

 集団の内にいたら気づかないことではあるが、集団の外から見たらおかしな人が集団の内で選ばれて上に立つ現象がおきる。この現象がおきるのは集団の内と外とのあいだで機会費用(opportunity cost)が高まっていることによる。集団の内でおかしな人が選ばれて上に立っているのならその人をすぐに見切ればよいが、それができない。すぐに見切ったほうが合理性があるが、それができずにこの人しかいないといったことになり、視野が狭窄することによって機会費用がどんどん高まって行く。

 森氏が言ったことを集団における不祥事だと見なせるとすると、それは森氏の個人のまずさだけにとどまらず、日本の社会がかかえている構造の問題だと見なすことがなりたつ。構造の問題として見られるとすれば、個別からはなれて一般化した形から、日本の社会の中の集団のあり方のまずさや、議論のやり方のまずさがあることをとり上げられる。それらがあるのだとすると、集団のあり方を正していったり議論のやり方を正していったりすることが行なわれればよい。そのことを具体的にいえるとすれば、森氏が長をつとめている東京五輪組織委員会の集団のあり方を正すようにして、そこでの議論のやり方を正すことがいる。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし) 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男