東京五輪の組織委員会の委員長は、失言したことを受けて、集団の長の地位をしりぞくべきなのかそれともとどまりつづけるべきなのか―危機管理の点から見てみたい

 議論の中に女性が参加することはよくないのだと言う。その失言をした森喜朗氏は、集団の長の地位をしりぞくべきなのだろうか。それとも集団の長の地位をしりぞかずにそのままいすわりつづけるべきなのだろうか。それについては人それぞれによってさまざまな見なし方ができるのにちがいない。

 東京五輪組織委員会の委員長の地位に森氏はついているが、その地位にこれから先もどうかいつづけてほしいとする声があがっている。この声にはそれなりの理由があるのだろう。それを頭から全否定するのはまちがっているかもしれないが、それとはまたちがった見かたとして、危機管理の点から見てみたい。

 危機管理の点から見てみられるとすると、そのさいに森氏の失言はひとつの危機だと見なすことがなりたつ。日本の国内だけではなくて海外にも波紋がおきている。森氏の失言から危機が引きおこったのがあり、それを何とかするためには森氏は集団の長の地位をしりぞくべきだろう。

 集団の長が自分で引きおこした危機があり、それを何とかするためには集団の長が地位をしりぞく。そのことは(それをしさえすればそれでよいといった)十分条件とはいえないものだが必要条件となるものだ。それをしたうえで、集団がかかえることになった危機を何とかして行く。一般論としていえばそのような流れによって危機に対応して行くのがふさわしいことだろう。

 引きおこった危機に対応するのかそれともそこから回避するのかの分かれ目がある。この分かれ目がある中で日本の社会の集団はえてして危機から回避しようとするのが目だつ。とりわけそれが目だつのが政治の世界だろう。政治の世界でもとりわけそれが目だつのがいまの与党の自由民主党のふるまいだ。

 森氏は自民党に属していて首相だったのがあるから、自民党のまずさがすけて見えてくるのもある。自民党の集団の危機だとも言えるものだろう。これまでに自民党は自分たちの集団がかかえることになった危機にまともに対応しようとはせずにそこから回避しつづけてきている。それでまんまと逃げおおせているのがある。

 危機にまともに対応せずにそこから回避するのはけしからん。そう言ってしまうだけだとただたんに道徳論としてよくないと言うだけにとどまってしまうかもしれない。それだとあまり効果がないかもしれない。それとは少しちがう見かたとして、きちんと危機に対応して、引きおこした危機にたいして十分な謝罪をすることができれば利点がおきることが見こめる。

 表面においてだけの心にもないなおざりで形式の謝罪をするだけに終わる。そうではなくて、まともに危機に対応していって、ほんとうにふみこんだ謝罪を十分にして行く。きちんと労力をかけてそれらをして行く。そうするようにすればそれをした人や集団が成長することができる。

 危機管理において危機への対応や謝罪をしっかりとすることができればそのことがそれをした人や集団の成長につながって行く。そのことをうら返していえば、きちんと労力をかけてそれらをすることがないと成長することもまた見こみづらい。成長が見られずにその逆に退化していっているところが自民党には集団としてあるのではないだろうか。

 自民党だけにかぎったことではなくて日本の国にもまた成長が見られない。日本が戦前や戦時中になした大きなあやまちや失敗があるが、それをふたたびくり返そうとしているふしがある。それがくり返されてしまうおそれがあるのは、日本の戦前や戦時中といまとが切れていなくて(悪い意味において)連続してしまっているせいだろう。

 交通の点からして、いまとかつてのあいだのいまかつて間で、さまざまにあるかつての負のことがらが忘却されて風化されようとしている。さまざまにあるかつての負のことがらが想起されていない。いくつもの負のことがらのこん跡が消されようとしている。きびしく見なすことができるとすればそう見なせるのがあるとすると、そこを改めることができたら日本の国にとって益になるかもしれない。

 参照文献 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『そんな謝罪では会社が危ない』田中辰巳(たつみ) 『知識ゼロからの謝り方入門』山口明雄(あきお) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司