法の決まりが先か道徳が先か―国家(の権力)つまり道徳となる危なさ

 法の決まりが先か、道徳が先か。憲法学者の木村草太(そうた)氏は、学校の教育で、まず法の決まりについてを教えることをすすめていた。まずはじめに法の決まりについてをきちんと教えて、道徳はそのあとでもよい。道徳がいちばん先なのではない。

 政権が日本学術会議の人事についてやったことを、人それぞれによっていろいろに見られるのはあるだろうが、法が先か道徳が先かで見られるのがある。ここでないがしろになってしまっているのは、法の決まり(慣習)であり、それとはちがう国家つまり道徳がとられてしまっている。

 法の決まりは小さい正しさに当てはまる。小さいとは、最低限(最低線)であるのをさす。自由主義における他者危害原則などの核となる守るべき最低限の具体の義務だ。人が治める人(権力者)つまり法の人治主義ではないのが法治主義や法の支配(rule of law)であり、個人の基本の権利を主とした決められた形式が守られなければならない。

 法の決まりの形式とはいっても、悪法もまたありえるから、悪法であったとしても守らなければならないのかがある。悪法であったら守らないで破ったほうがよいのではないかの点については難しいもので、色々な見かたがあるものだろう。これは形式か実質(のよし悪し)かのちがいだ。

 法の決まりのよし悪しはあくまでも価値の判断で、それは客観には決めがたいとするのが価値相対主義の実定法主義(法実証主義)とされ、価値はとりあえずかっこに入れたうえで、(よし悪しは抜きにしたかぎりで)事実として法があると見なすのだとされる。価値と事実を切り分ける。方法二元論だ。それとはちがいよいか悪いかの価値を決められるものだとしてとり上げて行くのは自然法による。自然法では悪法はあることになるという。

 約束と愛でなぞらえられるとすると、(価値は抜きにして)たとえ愛が冷めていたとしてもとりあえず事実としての約束をこれからも引きつづいて守るのと、愛が冷めたのであればそれをいちばん重く見て事実としての約束にはもはや価値がないから破る(または解消する)かのちがいだ。

 愛が冷めていれば人情を欠いた(ともなわない)冷たい義理になるが、それでも事実としては義理は義理だとする。それとはちがい人情を欠いた冷たい義理はもはや温かい義理とは言えず、あくまでも人情のある温かい義理が大事なのだから冷たい義理は破って解消するのかだ。

 近代の法治主義や法の支配においては、その核となるところに個人主義における個人の基本の権利があるとされる。個人のことを重んじないようなおかしなあり方でなければ、個人の基本の権利の核から出発して色々な法の決まりがつくられることになり、そういうあり方になっていればそれほどまちがった法の決まり(悪法)がつくられることは基本としてあまりないものだろう。原則論としてはそう言えるのがあるが、何ごとにも例外はつきものだから、例外論によって例外をくみ入れないとならないのはあるが。

 小さい正しさと大きい正しさがある中で、小さい正しさの法の決まりをないがしろにして、国家つまり道徳として大きい正しさを持ち出す。与党である自由民主党の政権は、自分たちがやったことについてを、大きい正しさによって正当化しようとしている。人治主義のようになっている。

 小さい正しさが守れていないのに、大きい正しさを持ち出すことによって政権は自分たちのやっていることを正しいことだとしようとしている。いちばん肝心なことは、大きい正しさにあるのではなくて、小さい正しさが守れているかどうかにある。

 巨視と微視で見られるとすると、巨視よりもまず微視で見ることが必要だ。巨視で見てしまうと、国家つまり道徳となって、国家が道徳を体現しているとなる。そこに危なさがあることはいなめない。それをしないようにして、微視で見て行く。

 たいてい国家の権力が悪いことをやるときには、巨視がとられることが多い。巨視をとらないと国家の権力が自分たちがやることや言うことをよしとすることができない。そこでないがしろになるのは微視である。

 国家の権力に悪いことをさせないようにするためには、巨視ではなくて微視によって見て行く。たいてい国家の権力が悪いことをするさいには、国家つまり道徳だとして、巨視をとり、微視をおろそかにする。それに乗っかってしまうと、国家の権力が悪いことをすることを止めづらい。

 国家の権力がおろそかにしがちな微視で見るようにして、法の決まりをきちんと守っているかどうかを重要なものと見なす。もしも国家の権力がそれを守っていないのであれば、それを大したことではないとして軽く見なすのではなくて、大きいことだと見なすようにして、きびしく批判をして行く。

 森と木(全体と部分)でいうと、国家の権力が悪いことをするさいには、たいていは大きな森を語りがちだ。大きな森の充実を言う。そこでないがしろにされるのは小さい木であり、小さい木に当たる法の決まりをきちんと守っているのかどうかを見て行ける。

 小さい木にまずいところがあるのなら、大きい森がおかしくなっているのだと見て行ける。大きな森が虚偽意識になっているのだとうたがうことがなりたつ。森の全体をいっきょにいっぺんにとらえることはできづらく、大ざっぱになりがちだ。そのさいに森のおかしさを反映するのは部分である小さい木からなのがあり、そこに着目する手がある。木から森へと見るのはやや飛躍があるかもしれないが、そのように見て行くことがあったほうが、国家の権力が悪いことをやることを止めるのに少しは役だつ。

 参照文献 『社会をつくる「物語」の力 学者と作家の創造的対話』木村草太 新城(しんじょう)カズマ 『現代倫理学入門』加藤尚武 『論理的な思考法を身につける本 議論に負けない、騙されない!』伊藤芳朗(よしろう) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『よくわかる法哲学・法思想 やわらかアカデミズム・〈わかる〉シリーズ』ミネルヴァ書房法哲学入門』長尾龍一 『義理 一語の辞典』源了圓(みなもとりょうえん)