フランスなどの他国からの批判を日本は受けとめなくてもよいのだろうか―比較や対比の必要性

 フランスや、カルロス・ゴーン氏は、日本の司法のあり方を批判している。日本の司法その他には悪いところがあるから、それを改めないとならないという。

 このことについて、ラジオ番組の出演者は異を唱えていた。それぞれの国にはそれぞれのあり方があるのだから、それぞれでよいのだというようなことを言っていた。フランスなどから批判されるいわれはないということだろう。

 たしかに、それぞれの国にはそれぞれのあり方があるのはあるけど、そのことをもってしてよしとしてしまってよいのだろうか。それをもってしてよしとしてしまうと、悪い意味での相対主義になりかねない。あれもこれもあってよいということになる。

 修辞学では比較からの議論というのがあるとされていて、比較は類似と優劣によるとされる。国どうしのことでは、たがいを比較することがあってもよいのだから、そこから国どうしで批判をやり合うことがあってもよい。それがないと互いに没交渉ということになってしまう。鎖国しているときのように閉じたあり方になってしまう。

 それぞれの人にはそれぞれの見かたがあるのだから、ラジオ番組の出演者のような見かたがあってもよいのはある。その見かたが絶対にまちがっているは言い切れないが、それぞれでよいとしてしまうと、日本が他の国から批判をされるいわれはなくなるかもしれないが、そのいっぽうでそれとともに日本が他の国を批判することもまたできなくなってしまう。それでもよいのだろうか。

 われわれの国はよい国だと見なしているのだとしても、ほんとうにそうなのだとは必ずしも言いがたい。それは内から見るのではなくて外から見たほうがよく見えることがあるし、外から見ることによって、内からでは見えないことが見えることがある。

 肝心なことは、少しでも日本がよい国になって行くことだと言えるとすると、そのためには色々な問題が発見されることがあったほうがよい。一気に解決することはできないかもしれないが、少しずつであっても片づけて行くことができればよい方向に向かうことができる。

 国という範ちゅうであれば、どうであってもよいということにはなりづらい。どういうあり方であればよいとか悪いとかという価値が関わってくる。国の中に悪いところがあるのだとすれば、それは悪い価値を部分として持つということだから、そこを改めることがあったらよいあり方になる。

 国どうしを比較することによって優劣をつけるのが絶対に正しいとは言いがたいから、二つの国があるとして、どちらか一方だけが絶対に正しくて、他方が絶対にまちがっているということにはなりづらい。絶対にとまでは言えないのはあるけど、どういう国の中のあり方がのぞましいのかにはあるていどの共通点があるのだから、それぞれの国がみんなてんでばらばらだとまでは言いがたい。

 あるていどの国どうしの比較はなりたつわけだから、範ちゅうだけではなくて価値によるよし悪しの批判というのもまたなりたつはずだ。日本がアメリカにただつき従うのではないようにするためにもそれがいるのではないだろうか。日本とアメリカということでは、日本はアメリカのよいところはあまり真似ていないような気がしてならず、もっとよいところを真似してもよいような気がする。そこについてはとくにアメリカに限らないのはあるし、さまざまな人が指摘しているところである。

 比較をするさいには、たんに二つのもののどちらが優でどちらが劣かというのだけだと十分ではない。中には同列には比べられないものやそうしづらいものも少なくはないから、それにたいする配慮はあってもよいものだろう。

 文化人類学者のクロード・レヴィ・ストロース氏は、西洋が進んでいて未開の国は遅れているとはいちがいには言えないことを明らかにした。未開の国であっても、西洋に引けをとらないくらいのすぐれた文化をもつ。中にはそういうことがあるからそこに気をつけることはいる。ただたんに優か劣かや進んでいるか遅れているかというのではないようにすることはいるが、一面としては価値のちがいを比べることはなりたつだろう。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 「二律背反に耐える思想 あれかこれかでもなく、あれもこれもでもなく」(「思想」No.九九八 二〇〇七年六月号) 今村仁司