非国民をつくり出すものとしての日本の国―国家主義による分断線が引かれる

 ひとくちに日本の国とはいっても、そのよし悪しがある。そう見なしてみたい。

 日本の国とはいっても、何がよい日本の国のあり方で、何が駄目な日本の国のあり方だということになるのだろうか。何がよい日本だと言えて、何が駄目な日本だということになるのかだ。

 日本を一つの場所(トポス)と言えるとすると、それがそこにいる人たちにとってどういう場所なのかがある。みんなをもれなく包摂するような場所であればよいが、一部の人たちだけしか包摂されず、ほかの一部の人たちを排斥するようではよい場所とは言えそうにない。駄目なところがある場所だ。

 駄目な場所としての日本としては、戦前や戦時中の日本のあり方があげられる。そのときには、たやすく非国民とされる人がつくり上げられた。非国民だということで人が排斥された。これは駄目な日本のあり方の筆頭だ。

 すぐに人のことを非国民のように見なして排斥するのは駄目な日本で、それをできるかぎりしないようにするのがよい日本だ。そう見なしてみることがなりたつ。

 戦前や戦時中のように、国家主義によって国家の公を肥大化させて、個人の私を押しつぶす。そういうようであっては駄目な日本のあり方だと言わざるをえない。よい日本のあり方を目ざすのならともかく、駄目な日本のあり方に戻ろうとしてどうするのだろうか。

 もともと日本はよいあり方だとは言えず、少しでも気を抜くとすぐに駄目な日本のあり方になってしまう。駄目な日本のあり方がすぐに頭を出してくる。そこに気をつけて気をつけすぎることはないだろう。

 日本にとって都合の悪い人を非国民だとして排斥してしまうのが日本の国の駄目なあり方で、それは火山でいうと休火山になることはあるが、完全に消え去るものではなく、いつでも活火山となる。いまは活火山になってしまっているところがある。駄目な日本のあり方が出てきている。

 駄目な日本のあり方が休火山になっているときであればともかく、それが活火山になっているときに、これがよい日本のあり方なのだとしても、それはよいのではなくて駄目なものだということになる。駄目なものについては、活火山にはならないようにして、せめて休火山にするようでないとならない。完全に消し去ることが理想だが、そこまではできないものだから、休火山のままにしつづけられるように努めるしかない。

 日本の国のあり方には、駄目なあり方を含み持っているのがあるから、その駄目なところが前景に出てきて全面開花しないようにして行く。思いきり全面開花してしまったのが戦前や戦時中の日本だから、そのときのあり方に戻ろうとするのだと、よいあり方からどんどんと遠ざかることにしかなりづらい。

 よいあり方そのものなのが日本の国なのだというのは、誰から見てもそうだと言えるほどの客観で自明な大前提とすることはできづらい。よいか悪いかの〇か一かの二分法ではないとしても、少なくとも日本の国には駄目なのや悪いところを半分くらいは含み持っていることはほぼ疑いようがない。だから、その半分の駄目なのや悪いところが前景化して、たやすく人のことを非国民と見なして排斥することがないようにして行けるかどうかが一つのかぎになる。

 参照文献 『非国民のつくり方 現代いじめ考』赤塚行雄 今村仁司他 『公私 一語の辞典』溝口雄三