政権のやることに反対の声をあげるのは、手段としてまちがったことなのかどうか―紛争の主体と手段と争点

 検察庁法の改正案に反対する声が、与党である自由民主党の議員の中からも出てきていた。自民党の中から反対する声をあげる議員が出てきているとはいっても、ほんのわずかのようではあるが。

 改正案に反対する議員は、この案への国民の一部からの反対の声があるのは無視できないとしている。国会は言論の府なのだから、十分な議論や説明をしないで強引に数の力でおし進めるのはよくないことで、争点をしっかりと明らかにしてとり上げないとならない。そうしたことを言っている。

 与党である自民党は多数派だから、数の力でものごとをおし進めることをいとわないあり方をとっている。自分たちがやることについて、それをいつやったとしても、いずれにしても反対の声はおきるのだから、いつやっても同じであり、いまやってしまおう、という理屈を示していた。

 いつやっても反対の声はおきるのだから、いつやっても同じだというのが自民党の関係者の言っていることだが、これだと、(新型コロナウイルスの感染で大変な)いまの時点でとくにやらないとならないことの強い理由になっているとは言えそうにない。いまの時点にどうしてもやらないとならないのなら、そうであることの強い理由がいるが、その理由はとくに無いように見うけられる。必要性についての強い理由を説明できていないと、許容することは難しい。

 反対の声をあげた自民党の議員の言うように、賛成の声だけではなく反対の声が少なからずおきていることをくみ入れて、争点をはっきりとさせるようにしたい。それで争点についてを解消して行くようにしたいものである。

 賛成の声をあげていたり、自民党のやることをよしとしていたりする人だけを承認するのではなくて、それについて反対の声をあげている人もまた承認するようにすることがいる。反対の声をあげている人はじゃま者だということで煙たがって遠ざけるのだと、紛争が片づくことはのぞみづらい。

 賛成だけではなく反対の声がおきていて、紛争となっているとすると、賛成とするのだけをよしとするのではなくて、反対としている人もまた承認するようにする。反対の声をあげるのは、法として許されない手だてではないのだから、手段としてまちがったことだとは言えそうにない。

 政権のやることに反対の声をあげるのは、自由民主主義の社会においてまちがった手段を用いているのではないのだから、反対の声をあげるという手段についてをとがめられなくてもよいものだろう。そこはとがめられなくてもよいことで、むしろそれが状況いかんによってはよいことに当たることも少なくないのだから、悪いことであるとは言い切れない。

 政権のやることに反対の声をあげる人を排斥するのではなくて、それを包摂するようにして、意見がちがう主体どうしで争点をはっきりとさせて、争点を解消するように努めるようにするのはどうだろうか。そう努めるようにしないで、政権に反対の声をあげるのを排斥して悪玉化するのだと、戦前や戦時中の二の舞になり、非国民をつくり出して非国民あつかいをしたことと同じことをすることになりかねない。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『非国民のつくり方 現代いじめ考』赤塚行雄 今村仁司