政治の右や左などのあり方しだいで、人や作品を好きになったり嫌いになったりするのでよいのかどうか―切り離してみることもできる

 政権のやることに反対の声をあげる。有名な芸能人などで反対の声をあげた人がいるが、それを知ったファンの中で、もうファンを止めるということを言う人がおきている。

 その芸能人や作者の政治のあり方を知ったことで、これからはもうファンであることを止めたり、作品を楽しむことを止めたりするというのだ。

 たしかに、芸能人や作者の政治のあり方が、右であったり左であったりするのがわかると、それと自分とのあり方とがちがっているさいに、正直なところがっかりすることはなくはない。

 それはあるものの、かりに政治のあり方がちがっているのがわかったとしても、芸能人や作者のパフォーマンスや作品は、それがよいものであるのだとしたら、そのパフォーマンスや作品はよいものだと見なすようにしてもよいのではないだろうか。

 芸能人や作者がどういった政治のあり方をしているのかは、動物のヒョウでいうとその体の一つのもようのようなものにすぎない。そこから、芸能人や作者そのものが駄目だとかよいとかとしてしまうのは、一斑(いっぱん)を見て全豹(ぜんぴょう)を卜(ぼく)するところがある。やや早まった一般化だ。ほかの部分を捨象してしまいかねない。

 動物のヒョウが一匹いるとして、そのヒョウの体にはいくつもの斑がある。その一つひとつの斑を性向(disposition)と呼ぶ。どういう特徴をもっているかだ。わかりやすいものでは何が好きか嫌いかなどだ。それをあらわすのが性向語だ。A は Bである、の B に当てはまるものである。科学ではそう言われるという。一匹のヒョウはさまざまな性向語をもつ。さまざまな特徴をもっている。人間でいえば、その中の一つに政治のあり方があるのだと言える。

 芸能人や作者とそのパフォーマンスや作品は、いっしょくたにするのではなくて、切り離してとらえられる。ついいっしょくたにしてしまうこともあるが、それだけではなくて、切り離してとらえることもまた可能だろう。

 評価をするさいには、なにも政治のあり方が決定的なものであるとは言えないから、政治のあり方がどうかを抜きにして、パフォーマンスや作品を評価することはやりようによってはできることである。

 政治のあり方がどうかということに引っぱられる形で、パフォーマンスや作品を評価するのは、パフォーマンスや作品そのものを評価しているとは言いづらい。他のものが入りこんでしまっている。パフォーマンスや作品をテクストと言えるとすると、それをとり巻くコンテクストがあり、そのコンテクストによってテクストをとらえる形だ。

 政治のあり方が右か左かによって、そのコンテクストによってテクストの内実が変わるとは言えないのがあるから、コンテクストがどうかとは別に、テクストがどうかを見られるのがある。コンテクストがどうかによって、テクストの内実がよいまたは悪いと決めつけられてしまうものではないだろう。

 コンテクストである政治のあり方が合わないから、テクストもまたよしとはしないというふうに、そこまでテクストについてを毛嫌いしなくてもよいのではないだろうか。それはそれ、これはこれ、ということで、政治のあり方がかりに合わないところがあるとしても、パフォーマンスや作品については、よいものであればよいのだと言えるのがあるから、政治のあり方がどうかはとりあえず抜きにしてよし悪しを見ることができる。

 テクストをよいものだとして楽しんでいたところに、政治のあり方というコンテクストが介入してくる。コンテクストが駄目だからテクストもまた駄目だということになり、テクストが否定される。そうしてしまうのだと、それまでテクストを楽しんでいた自分のことを否定することにならないだろうか。テクストを楽しんでいたことは否定されねばならず、それは嘘だったということになってしまうのだろうか。そうではなくて、コンテクストがどうかとは別に、テクストそのものがどうかというのもまたあるから、そこを切り離すこともなりたつ。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠