桜を見る会とその前夜祭と、国の政治における大きいことと小さいこと―大きいことだけが大事なものなのだろうか

 大きいことには大きな価値がある。小さいことにはあまり価値がない。そう言うことははたしてできるのだろうか。

 大きいことに大きな価値があるのだったら、小さいことがもつ小さな価値などどうでもよいことだとなるので、大きな価値を目ざしてつき進んで行けばよい。ほかのものやよそには目もくれずに速度を上げて進んで行く。この発想には危なさがつきまとう。

 国の政治において、大きいことと小さいことがあるとして、大きい価値をもつとされる大きいことを優先して目ざすべきなのだろうか。小さな価値しかないとされる小さいことはないがしろにしてしまってもよいのだろうか。それは必ずしもそう言うことはできづらい。

 国の政治におけるものごとのほんらいのあるべき順序としては、お笑い芸人の西川きよし氏が言う小さなことからこつこつとではないけど、まず小さいことがきちんとできていないとならない。小さいことがしっかりとできていたり、それができていないのならきちんと改めるようにしたりして、それができているうえで、はじめてそこから先に進んで行ける。

 国の政治において、ものごとのあるべきほんらいの順序をはきちがえてしまい、小さいことなんかどうでもよいのであって、大きなことをやることが大事なのだ、となってしまうと、そこに危なさがおきてくるのを避けづらい。その危なさは、小さいことがもしかするととても大事なことであるというのをとり落としてしまいかねないのがある。

 大きなものだけが大きな価値や意味あいをもつのだとは必ずしも言えそうにはない。大きなものは、見かけがそうであるだけであって、じっさいには小さな価値や意味あいしか持っていないことがないではない。見かけが小さかったりささいなことだったりするのだとしても、それがもつ価値や意味あいは思っていたよりも大きいこともあるだろう。

 国の政治では、(当然のこととして)大きなことも大事だとは言えるけど、流れというのもまたある。流れとしては、小さいことがしっかりとできていないとならず、それがおろそかであってはいけないのではないだろうか。それができているようにして、そのうえで、中くらいのものや、ちょっと大きいものや、大きいものを目ざす。少しずつそうやって行くようにして、最終としては大きなものを得ることができた。そうであれば流れとして安全だろう。

 微視(ミクロ)と巨視(マクロ)があるとして、いきなり巨視のことができたらそれはそれですぐれた達成だろう。ただ、そうしたことは現実にはまれなので、そうそうはないことだというのがある。一つひとつ小さいことからこつこつとやって行って、それでだんだんとうまくすれば中くらいや大きなものになって行く。そういうやり方であるとすれば、巨視だけではなくて微視もまた欠かせない。微視を抜きにして、巨視もまたなりたたない。そのどちらか一方だけにかたよるのはまずいから、つり合いをとることは大切だけど、その両方が共に、車の車輪のようにはたらく。相互作用がおきる。そう言えるかもしれない。

 参照文献 『論理的な思考法を身につける本 議論に負けない、騙されない!』伊藤芳朗(よしろう)