批判することにおける一と多―衝突断面積(集合)を広げてみる

 首相についてを批判する。このさい、批判をするというのはどういうことなのだろうか。それについては、色々な見かたができるのはまちがいない。そのうちの一つにすぎないが、一と多ということで見て行けるかもしれない。

 批判をするさいには、一と多で見られるのがある。これは、単線と複線といってもよい。単線は一本の線だけだが、複線は複数の線をつき合わせる。一つのことであっても、それを単線で見るのと複線で見るのとではまたちがってくる。複線で見ると、微視(ミクロ)ではなくて巨視(マクロ)になりやすい。

 単線だと、肯定なら肯定だけ、否定なら否定だけ、というものだが、複線だと、肯定だけとか否定だけとかではなくて、その二つを合わせもつ。表だけとか裏だけとかではなくて、その両方をくみ入れる。

 まず一がある。この一というのは、首相を批判するのであれば、首相の言っていることだ。このさい、首相の言っていることについて、その受けとめ方には、同化と異化がある。

 首相の言っていることを一とすると、それを同化として受けとめるのがある。同化するのは、距離をとらないあり方だ。そのまま受けとめる。一体化する。それとはちがい、異化であれば、首相の言っていることと距離をとって、それを対象化する。距離をとって対象化してみて、吟味を行なう。

 首相の言っていることは一だが、それにたいして、多がおきてくる。賛否の声がおきてくる。首相の言っていることは、首相の人格から切り離せるとすると、あくまでも一つの仮説や判断にすぎず、ほかにもっと色々な仮説や判断をとることができるから、それによって多になる。

 一だけを見ていると、多を見落とすことになるから、批判が十分にはできづらい。一だけをもってしてよしとしていると、多をとり落とすことになって、多の中にほんとうはもっとふさわしいものがあるということを見落としかねない。小飼弾(こがいだん)氏のいうところを借りるとすると、一だけだと、衝突断面積(集合)が十分に大きくはない。とりわけ、一で同化の受けとり方だと不十分だ。

 一だけだと衝突断面積が十分には大きくないので、その面積を大きくしてやるのが、多を見て行くことだ。さまざまな質や毛色のちがう多を見て行くことによって、衝突断面積が大きくなっていって、一つひとつの一が相対化される。そのようにして、一つひとつの一のとらえ方をちょっと変えてやるようにする。

 首相の言っていることを批判するさいには、一だけをもってしてよしとするのではなくて、衝突断面積が小さいのから大きいようにしていってみる。そうすると一だけではなくて多になるから、多があることによって一をまたちがったようにとらえ返すことができやすい。微視ではなくて巨視になりやすい。そうすると少し批判がしやすくなることが見こめる。

 参照文献 『決弾 最適解を見つける思考の技術』小飼弾(こがいだん) 山路達也 『打たれ強くなるための読書術』東郷雄二 『伝える! 作文の練習問題』野内良三(のうちりょうぞう)