首相が言う、野党の議員による意味がなく生産的ではない質問と、それへの質問(疑問)―ほんとうに意味がなく生産的ではないものなのだろうか

 意味のない質問だ。非生産的なやり取りだ。国会で野党の議員が質問を投げかけたことについて、首相はそうした感想を言っていた。

 野党の議員が質問をし終わったときに、首相はあたかも捨てぜりふのように、意味がないとか非生産的だとかと言っていたようだ。

 首相が言う、意味がないとか非生産的だというのは、野党の議員が投げかけた質問がそうだというのではなくて、問答や議論がそうだということではないだろうか。首相のもつ認識として、問答や議論をすることに意味がないとか非生産的だと見なしているのだ。

 首相や政権にとって都合のよいものが、意味があるのや生産的な質問で、その逆の都合が悪いものが、意味がないのや非生産的なものだとしている。そう言い換えて見てみることがなりたつ。婉曲(えんきょく)の語法なのだ。

 意味がないとか非生産的だというのを、無駄だというふうに言い換えて見てみることもできる。無駄かどうかというのは、目的や期間がどうかということによって変わってくる。いちがいに頭ごなしに無駄だと決めつけるのはやや性急だ。

 どちらかがまったくの白で、もう一方は黒だということだと、二分法になってしまう。そうなるのを避けるようにして、灰色だということでやり取りをするようにして、何を議論の中でとり上げるようにするかを見るようにしたい。

 まだ客観の事実とは言えないような、意見が分かれていることであれば、それを客観の事実としてあつかうのは適していない。議論の中でとり上げることがいる。それをせずに、もうすでに客観の事実となっているものだとして、問答や議論は不要だとするのであれば、まっとうな議論にはなっていないということだろう。

 力や数によって正しさが決まるとは限らないから、あまり力や数によりすぎてしまうと、力にうったえる議論になってしまう。これだと権力チェックをすることができなくなる。いついかなるさいにも力や数が正しいとは言えないから、うのみにすることには待ったをかけられる。力や数によりすぎてしまうことで一元化されてしまう危なさがある。

 一元化されると、まちがった方向に進んださいにつき進んで行ってしまうことがあるから、それに歯止めをかけるようにしたい。その歯止めをうとましいものだとしてとり払おうとする思わくが、首相のふるまいからは見てとれる。権力の支配への効率化の思わくだということができるだろう。それが強まりすぎると適正さが損なわれて閉じた抑圧のあり方になりかねない。過去の歴史では、一元化や効率化されたことで失敗した例は少なくない。その失敗のもととして、(イエスマンばかりになって)抑制と均衡を欠いていたことがある。

 参照文献 『無駄学』西成活裕(にしなりかつひろ) 『これが「教養」だ』清水真木(まき) 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『政治学川出良枝(かわでよしえ) 谷口将紀(まさき)編