コロナ禍の禍の複合性―政治の政権の禍もありえる

 コロナ禍(か)と言われるのがある。このさいの禍についてを見てみることができる。

 新型コロナウイルスがもたらす禍のすべてを数学で言われる積分とすることができるとすると、それを微分化することがなりたつ。

 微分化することができるとすると、いくつかの禍に分けられる。ウイルスの禍だけではなくて、そのことに対応することがきちんとできていない政権の不手ぎわの禍がある。政権が説明責任をきちんと果たせていないのや情報の公開や情報の信頼性が十分ではないことの禍もある。

 複合の禍があるとできるとすると、ウイルスの禍だけではなくて、それに対応して行く政治(政権)の禍もまたある。そこを切り分けられるとすると、政治にまつわる禍についてをきびしく見て行くことがいるのではないだろうか。

 政治(政権)がもしもきちんとしていれば、政治にまつわる禍はゼロか最小だ。政治がおかしければその禍は大きくなりかねない。政権がもつ政治にとり組む力が十分にないのだとすると、ウイルスの禍にたいして有力な対応ができることはあまりのぞみづらい。

 ウイルスの禍にたいしてきちんとした対応をして行くためには、政権がどれほどの創造性をもっているのかが試される。いまのところ高い創造性をもってとり組んでいるのだとはあまり見なしづらい。創造性の三つの要素である資源や動機づけや技術が高いとは見なしづらく、もしもそれらがとても低いのだとすると、政治の禍がおきてくることが危ぶまれる。

 参照文献 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『微分積分を知らずに経営を語るな』内山力(つとむ) 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)