論文と現実のどちらがより大切なのか

 論文よりも現実を見よ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 論文をもとにしてウイルスの感染の対策を語っていたテレビ番組の出演者にたいして、別の出演者は、論文を見るのではなくて現実を見るべきだと言う。その出演者が言うように、論文よりも現実を見るべきなのだろうか。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染を何とかするためには、論文を見ることは意味のないことで、現実を見ることにのみ意味があるのだろうか。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の比較からの議論から見てみられるとすると、こう言えるのがあるかもしれない。テレビ番組の出演者が言うような論文か現実かの比べ方は、必ずしも正確ではない。より正確にいえば、論文か現実についての表象(representation)かの比べ方がなりたつ。

 論文か現実かではなくて、論文か現実についての表象かを比べてみると、どちらも編集がほどこされている。論文と現実についての表象は、ともに編集がほどこされている点に共通点がある。あるものはひろい上げられるが、あるものは捨て去られる。編集する人の判断が入りこむ。それによってできているものだ。

 生の現実そのもの(presentation)は、言葉や数字になる前のものだとすると、それを言葉にしたり数字であらわしたりすることで現実についての表象ができ上がる。言葉や数字は記号であり、生の現実そのものをあらわしたものだとは言えそうにない。現実と記号とのあいだにはずれがある。

 記号としての現実は、それぞれの人によってそれぞれのとらえ方になるから、たった一つの揺るぎない現実があるといったことであるよりは、それぞれの人によるそれぞれの現実があるといえるだろう。

 論文はテクストによるが、現実もまたテクストとしてとらえることがなりたつ。現実についてをテクストとしてとらえるのなら、たった一つの揺るぎない現実があるよりは、いろいろな点から現実をとらえることがなりたつ。さまざまな現実の見なし方がある中で、たった一つの現実の見なし方だけをとくに特権化することを避ける。それが現実をテクストとしてとらえることだ。

 自分のまわりをとり巻く現実であれば、自分でじかに確かめることができなくはない。世界の全体がグローバル化している中で、自分をとり巻く現実を超えたところの現実をじかに自分で確かめることはできづらい。

 実用主義(pragmatism)の点から見てみられるとすると、国とか社会の全体とかは、自分でじかに確かめられる範囲を大きく超えているので、現実であるよりは虚偽に近いところがないではない。現実と見なすには飛躍があるのが国や社会の全体だ。

 国や社会の全体がいま現実にどうなっているのかは、実用主義の点からすると、現実ともいえるし虚偽ともいえる。どちらともいえるところがある。自分でじかに確かめられる範囲を大きく超えてしまっているのが国や社会の全体だからだ。ほんとうの生の環境であるよりは、報道などでつくり上げられた疑似の環境となっている。

 全体は非真実であるのだと哲学者のテオドール・アドルノ氏は言う。それからすると、現実の全体を知ることはできそうにない。あくまでも現実の部分を断片として知ることができるのにとどまる。

 哲学の新カント学派の方法二元論によって、事実と価値を分けてみたい。その二つを分けてみたさいに、事実である何々である(is)を知ったとしても、そこには価値はとくにない。事実による空間は、たんにいろいろな事実があるだけのことだから、そこには価値はとくにない。いろいろな事実について、どのような価値があるのかや、どのような意味があるのかの、意味の空間によってものごとをとらえている。それが人間の世界である。

 人間の世界は事実の空間と意味の空間でなりたつ。たんに事実の空間だけであれば、そこにはとくに意味があるとは言えそうにない。だから、現実を知ったとしても、それが事実の空間を知ることだけなのであれば、とくに意味はないだろう。

 どれだけくわしく事実の空間についてを知っていても、それが客観に意味をもつことだとは言えそうにない。たとえ現実をくわしく知っていても、それだからえらいとは言い切れないものである。えらいかどうかは、価値や意味によるものだから、そこに価値や意味を見いだしていることによっている。

 現実をとらえづらいのと、価値をとらえづらいのとがある。その二つがあり、現実をとらえづらいのは、客体としての現実をたしかにとらえることができづらいのがある。かなり不たしかな現実のとらえ方にならざるをえない。

 ほんとうのところは現実がどうなっているのかが分かりづらくなっている。現実と虚偽とのあいだの分類線が揺らぐ。現実が何らかのかたちで虚偽意識と化す。虚偽の情報がまん延してしまう。報道やウェブなどで言われていることをそのまま丸ごとうのみにはしづらい。政治の権力が言っていることをそのまま丸ごとうのみにはしづらい。

 価値についてでは、どうあるべきかや、どういうことを目ざすべきかがわかりづらい。神の死によって、最高価値が没落して、価値の一神教がなりたたなくなっている。価値の多神教になっている。どのような価値も最高の価値をもちづらく、価値が相対化される。

 現実と価値の二つについて、大きな物語がなりたちづらい。小さな物語にならざるをえない。どういう現実なのかや、どういう価値がよいのかについて、大きな物語がなりたちづらく、小さな物語になってしまう。そうした中で、必ずしも現実を絶対化することはできず、現実を相対化するようにして、現実から適度な距離をとることが必要なことがある。

 いまの現実の時点に生きているから、いまの現実が大切なように見なせるが、そこから離れてみれば、客観にいまの現実の時点がとりわけ大切なのだとは必ずしも言えそうにない。時間の線がある中で、任意のどの現実の時点であったとしても等価であるはずだから、いまの現実の時点だけをとくに特権化することはできそうにない。

 現実が大切かどうかについては、流行と不易(ふえき)があり、たんなるいまの現実は流れ去ってしまうものだから流行に当たる。流行とはちがい、持続した価値をもっていてあとに蓄積されるものであれば不易に当たる。局所の点からすればいまの現実は大切だが、大局の点からすると、流行よりも不易のほうがより重要だということもできるだろう。

 局所ではなくて大局の点からすると、いまの現実を絶対化しすぎずに相対化することもまた大切になってくる。一〇〇年くらい経ってしまえば、いま地球上に生きている人はほぼみんないなくなっているのはたしかだ。人間は可死のものだから、死をまぬがれることはできず、無限ではなくて有限な生を生きている。生から死への一方向の単交通の流れを進んで行く。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『知の編集術』松岡正剛(せいごう) 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ) 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『記号論』吉田夏彦 『そうだったのか現代思想 ニーチェからフーコーまで』小阪修平(こさかしゅうへい) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『相対化の時代』坂本義和 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき)