アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうか―認知のゆがみのおそれがある

 おまえは首だ。英語でそれを You are fired というらしい。アメリカのドナルド・トランプ大統領はかつて大統領になる前にテレビ番組の司会者をつとめていてその中の決め文句としておまえは首だとほかの人に向かって言っていたそうだ。それがいまでは自分が大統領の地位を首になることがほぼ確かなことになっている。わたしは首だといったことで、I am fired といったところだろうか。

 文学のカーニバル理論では殺される王の主題があるとされる。王殺しだ。哲学者のミハイル・バフチン氏による。王となった者は戴冠(たいかん)されることで王になるが、それがあとで奪冠されることになる。戴冠と奪冠の運動だ。これは季節でいうと冬と春(夏)の循環だ。冬の王がいすわりつづけているのが追い落とされて、冬の王が殺されて春がやって来る。

 民主主義においてはじっさいに冬の王の頭をかち割るわけには行かない。頭をかち割るのではあまりにもぶっそうで野蛮だ。頭をかち割るかわりに数を割る。数で決着をつける。思想家のエリアス・カネッティ氏は、民主主義は頭をかち割るのではなくてそのかわりに数を割るものだと言っている。そこで決着をつけるとはいってもあくまでもさしあたってのものであり、決着がついたことを絶対化することはできないものである。どういうふうに決着したとしてもそこにはたまたまそうなったのだといった風向きなどによる偶有性があることはまぬがれづらい。

 トランプ大統領がだれにとっても冬の王に当たるとは言い切れず、それなり以上に支持されているのはあるが、トランプ大統領は自分が大統領選挙で大統領の地位にとどまりつづけられない結果が出ているために、選挙は不正だと言っている。トランプ大統領が言うように選挙で不正が行なわれているのだろうか。

 選挙で不正が行なわれているかどうかは、たとえトランプ大統領がしきりにそう言っているのだとしてもあくまでも仮説の域を出そうにはない。トランプ大統領は政治の権力者であり、権力者が言っていることはそれすなわち最終の結論とは言えないものである。仮説にとどまるものだからそれがしっかりと検証されることが必要だ。

 認知のゆがみがあることをくみ入れられるとすると、トランプ大統領はそうとうな認知のゆがみを持っていることがおしはかれる。そこから選挙で不正が行なわれたのにちがいないとする見かたがおきてきているのだろう。その見かたには肯定性の認知のゆがみがはたらいているおそれがあり、その確証の認知のゆがみを相対化するようにして、その見かたと反対の見かたもまた見て行くようにしたほうがつり合いをとりやすい。

 具体の発言を一般化して見られるとすると、トランプ大統領が言っていることは、一般的にどのような大統領であったとしてもそれを言うことがなりたつ。ある任意の大統領が大統領選挙で自分に不都合な結果が出たさいに選挙で不正が行なわれたのにちがいないと言うことがなりたつ。トランプ大統領にかぎらずどのような大統領であったとしてもそれを言うことができるだろう。

 トランプ大統領であれば大統領選挙で不正があったのだと言うことが許されて、たとえば左派の大統領であればそれを言うことが許されないといったことだとかたよったあつかいになり、自由主義(liberalism)における普遍化できない差別がおきていることをあらわす。普遍化できない差別がおきないようにするためには、任意の大統領においてあつかいが等しくならないとならず、トランプ大統領だけを特別あつかいしてはならないだろう。

 最終の結論となるものではなくてあくまでも仮説にすぎないことを言っているのがトランプ大統領の言っていることだから、現実そのものをとらえているのだとは言えそうにない。選挙の結果にたいして主観の意味づけや解釈が行なわれている。その主観の意味づけや解釈がまちがっていてゆがんでいることがあるから、まちがいなくアメリカの大統領選挙でトランプ大統領が言っているように不正が行なわれたのにちがいないと見なすことはできづらいだろう。トランプ大統領がまちがった主観の意味づけや解釈をしているおそれが少なからずある。トランプ大統領の主観の意味空間は置いておくとして、事実空間として選挙で不正が行なわれたかどうかは確かな客観の証拠(evidence)が求められる。

 参照文献 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫丸谷才一を読む』湯川豊 『考える技術』大前研一 『超常現象をなぜ信じるのか 思い込みを生む「体験」のあやうさ』菊池聡(さとる) 『超常現象の心理学 人はなぜオカルトにひかれるのか』菊池聡 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『空間と人間 文明と生活の底にあるもの』中埜肇(なかのはじむ)