日本学術会議のことで、政権に求められること―浅さではなくて深さがいるが、深さが足りていない

 日本学術会議にまずいところがある。与党である自由民主党菅義偉首相による政権が会についてをそう見なす。もしも政権が会についてそう見なすのであれば、そのさいにどういったことが必要になってくるだろうか。

 会についてかりに政権がまずいところがあるのだと見なすのであれば、そこで必要になってくるのは、政権が会に介入することによって政権にとって都合の悪い学者を会からてっとり早く排除することにあるのだとは言えそうにない。

 どういったところに会のまずさがあるのかの原因を探って行く。民間の自動車会社のトヨタ自動車で行なわれているような、なぜの問いかけを何回もくり返し投げかけて問いかけて行く。政権がなすべきことはそれなのがある。

 何をなすべきではないのかといえば、政権がやっているような、会が既得権益だとか閉鎖的だとか多様性がないとかといった一面性による主観の決めつけだろう。そのように決めつけてしまうと、何であるか(what)を見ることにはなるが、なぜであるか(why)を見ることにはつながりづらい。

 何であるか(what)のところの表面の現象のところで政権は会についてをとり上げてしまっている。それだとかりに会にまずいところがあるのだとしても本当の解決にはつながりづらい。本当にまずいところを解決して行くには、何であるか(what)のところの表面の現象のところに手を打つのだと意味がない。政権はその意味がないことをやっていて、効果がない浅いところで手を打ってしまっているのはいなめない。

 何であるか(what)のところの表面の浅い現象のところではなくて、そこからさらにどんどん深くまで見て行く。なぜなのか(why)のところをどんどん深くまで見て行くようにする。その深さがぜんぜん足りていないでひどく浅いのが政権のありさまだろう。

 深さがぜんぜん足りていないことによって、浅いままにとどまっていて、危機管理において危機に対応していってものごとを体系としてとり上げることが行なわれていない。危機から回避してしまっている。体系としてさまざまにありえる要因を分析することができていない。

 政権が何かまずいことがあるさいにそれを何とかして行くうえで、浅いところに手を打ってもしかたがない。浅いやり方だと深いところにある核となる要因を見つけられていないことになるから、ほんとうに意味のあることが行なわれづらい。政権が何かをやるさいに求められるのは、浅いところに手を打つことではなくて、深いところにある核の要因を見つけていってそこにたいして手を打つ。それをしなければならないが、それには政権に創造性があることが欠かせない。

 政権には創造性がいちじるしく欠けているために、政権はかりに何かをやっているのだとしても浅いところに手を打つことしかできていないのだろう。政権が会について見なした一面的な見なし方の主観による会が何であるか(what)をこえ出るようにして、そこからなぜなのか(why)に行くことが行なわれていない。浅いところから深いところへ行くことが行なわれず、浅いままにとどまっている。

 主観による一面的な見なし方になってしまってるのが政権の会についての見なし方だとすると、その政権による見なし方は上からの演繹による安定性はあるかもしれないが広い通用性があるとは言えそうにない。政治の時の権力が上からこうだとすることによって演繹による上からの安定性はおきるのだとしても、そこに広い通用性があるとはいえず、通用のしなさが目だつ。

 学者の仲正昌樹(なかまさまさき)氏によると、物語には安定性と通用性の矛盾や両立のできづらさがあるとされる。閉じた上からの演繹の安定性をとるか、開かれた不安定性をとるかのちがいがある。物語があまりにも安定性によりすぎると教義や教条(dogma、assumption)と化す。閉じた上からの演繹の安定性に強くよってしまうと、神話による神話作用がまかり通るようになる。官僚主義の無びゅう性による神話をとらないようにして、まちがいを含みうる可びゅう性による開かれた不安定性を引きうけることが政権には求められる。

 参照文献 『考える技術』大前研一 『「Why型思考」が仕事を変える 鋭いアウトプットを出せる人の「頭の使い方」』細谷功(ほそやいさお) 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄(おおぬきいさお)訳 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ) 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人