現実や事実と、であるべきとしての憲法―is(である)からought(であるべき)を導く自然主義の誤びゅう

 現実は、である(英語の単語では is)である。憲法はであるべき(英語の単語では ought)だ。そう見なせるとすると、現実である is から、憲法である ought を導くことはできそうにない。

 である(is)から、であるべき(ought)を導くのは、自然主義の誤びゅうとなる。なので、現実がこうなっているから、憲法をそれに合わせようというのは、必ずしも正しいということにはならない。

 たとえば、現実において、人権が侵害されていることが少なくない。現実において、人権が侵害されていることが少なくないからといって、その現実である is に合わせて、憲法である ought を変えようということになったら、おかしな話になってしまう。

 憲法では人権が保障されているが、その人権が侵害されるようなことが現実に色々なところで行なわれているからといって、それをもってして憲法を変えるべきだということにはならない。これは、である(is)からであるべき(ought)を導かないのがふさわしいということを示す。

 現実に自衛隊があるのだから、それを憲法に明記するようにしようというのは、である(is)からであるべき(ought)を導いているところがある。完全にそうだというのではないが、部分的にそうしたところがある。

 憲法自衛隊を明記することを含めて、憲法を改正するのをよしとするのは、一つの案としてまちがったものだとは言えないものである。自衛隊の必要性は高いから、それなりに正しいのはあるだろうが、気をつけないとならないのは、である(is)はであるとして、事実は事実として、それとであるべき(ought)や価値はそれとして、分けて見るようにすることがいる点ではないだろうか。それらをいっしょくたにして混同すると、自然主義の誤びゅうになりかねない。

 現実である is や事実からは、であるべきである ought や価値を導くことはできず、その二つは分けて見ることができる。現実や事実がこうなっているということからは、であるべきや価値は自動的には導かれなくて、それはそれでまた別だという見かたがなりたつ。

 自分が日本人であるとして、その日本人であるというのは事実だが、そこから日本人であるべきだという価値は導かれない。国籍や民族でいうと、どういう国の人かやどういう民族かというのからは、正や負の価値を導くことはできない。どういう国籍かやどういう民族かというのは事実だが、それと正や負の価値とはまた別のことであって、それらをいっしょくたにしてしまうと、である(is)からであるべき(ought)を導くことになってしまう。

 哲学には新カント学派というのがあるそうなのだが、これによると、事実と価値というのを分けて見るのがとられている。いくら事実についてを深くくわしく知って行ったところで、そこからは価値というのは出てはこない。価値というのはまた別なことがらなのだ。方法二元論によって見て行くあり方だ。

 事実と価値ははっきりと分けられるのかというと、そうとは言えそうにない。いちおう便宜(べんぎ)または方法論としては分けられるのだが、完全に分け切れるのではない。じっさいには、事実に価値が入りこんでしまう。それは避けられないものだとされる。

 たんなる中立の事実というふうにはなりづらくて、そこに何らかの価値づけや意味づけが行なわれることになる。

 歴史の事実なんかでは、客観で中立の事実であると言えるのかといえば、そうとは言いがたく、主観が入りこまざるをえない。それをできるだけ少なくするのが研究者のやることだが、それでもまったく純粋に客観や中立であるとは言えそうにない。

 事実か事実ではないかとか、事実か価値かというのは、分類であって、分類というのは解釈だ。そこには主観が入りこむことになる。なんの価値づけや意味づけも抜きにして、ただたんに事実だけを受けとることは困難だ。なんらかの価値や意味のものさしを当てはめて、それによって事実であるとか、そうではないとか、価値があるとかないとかと分類することになる。

 現実や事実とはちがい、であるべきや価値というのは、目標となる状態である。その目標となる状態は何なのかというのは、はっきりとした答えがあるものではないかもしれない。そこがうやむやではっきりとしていないと、どうあるべきなのかや、どういう価値をとっているのかが見えてこない。どうあるべきかということや、どういう価値をよしとするのかについて、現実である is から導いてしまうのは、自然主義の誤びゅうとなるから、あまりのぞましいことではないのではないだろうか。絶対によくないとまでは言えないかもしれないが。

 どういうあり方をよしとするのかは目標となる状態だが、その目標となる状態を憲法が定めているとして、そこにひと足飛びで行くことはできないかもしれない。目標となる状態への道のりは遠い。そうであるとすれば、さしあたっての目ざすべき中間の地点というのを定める手がある。そういうふうに、高い(最終的な)理想としてはここを目ざしていて、そこへいたるまでに現実にはこういう地点へ向かう、というふうになっていればわかりやすい。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『現代思想事典』清水幾太郎編 『人間と価値』亀山純生(すみお) 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり)