ロシアの戦争と、ロシアの不たしかさ―非客観や非本質としてのロシア

 ロシアが他国であるウクライナに戦争をしかける。そこに見てとれるのはいったいどういったことだろうか。

 ロシアが戦争をやっていることに見てとれるのは、一つには、国の境界線(国境線)の構築性だろう。国境の線引きには、人工の構築性がある。

 完全な自明性をもたず、自然なものではないのが、国境の線引きだ。どこに国境の線を引くのかには気ままさや恣意(しい)性があり、どこからどこまでをロシアの国の体系(system)だとするのかははっきりとした根拠をもたない。

 どこからどこまでをロシアの国だとするのかは、決めづらい。線引きを引きづらい。どこからどこまでをロシア人だとして、どこからがロシア人ではない非ロシア人だとするのかは、定めづらい。

 ロシアが戦争をやっているのは、ウクライナはロシアにとって他国ではなくて自国の一部なのだとしていることによるだろう。それと同じように、中国にとってみれば、香港や台湾は中国の一部なのであり、中国の政治の権力に従わなければならない。従わずに支配を受け入れないのであれば、力ずくの暴力によって従わせるしかない。

 どこまでがロシアなのか。どこまでが中国なのか。だれからだれまでがロシア人なのか。だれからだれまでが中国人なのか。ロシアや中国がどこまでかや、ロシア人や中国人はだれまでかは、きっちりと線を引きづらいのがあり、あいまいな領域を残す。

 いまは世界主義(globalization)がおこっていて、これはアメリカ化だとも言える。世界がアメリカ化しているのがあり、それをくみ入れると、どこからどこまでがアメリカで、だれからだれまでがアメリカ人なのかは決めづらい。アメリカは一つの国であるといえるよりも、それそのものが世界(アメリカつまり世界)なのだと言えなくもない。

 同じロシアであるのやロシア人であるのなら、類似性による。ロシアではなかったりロシア人ではなかったりするのは差異性による。同国(人)か異国(人)かは、客観であるよりも、主観の意味づけによる。

 同国(人)か異国(人)かは、分類づけることであり、その分類は完全に客観によるのではない。同じといえば同じであり、ちがうと言えばちがう。すごく遠くから見れば、人間はみんな同じだ。距離を離して遠くから見れば、どの人もみんな人間として同じだから、人間として一くくりの分類づけの中に入れられる。

 われわれ(we)とやつら(they)の二つに分けるのは、客観であるよりも主観によっている。どこまでがわれわれで、どこからがやつらなのかは、客観に分けられるとは言いがたい。われわれとやつらの二つに分類づけをするのにしても、そこには客観の根拠がない。

 同じものどうしであり、なおかつちがうものどうしでもあるのが人間だろう。その二つがあるから、同じでありつつちがいがあるといえる。同じところがあるから(同じものの中における)ちがいが成り立つのがあり、個人としてはみんな同じであり、そのうえで個人としてそれぞれにちがいがあることをくみ入れて行きたい。

 これとこれは同じだとして、あるものどうしを同じものだと分類づけするのは、それぞれがもつちがいを無視してしまっている。よくよく見てみれば、たとえ同じものどうしだと分類づけされるものであっても、一つひとつはちがっている。一つひとつはそれぞれにちがっているのだから、同じものどうしだとするのではなくて、ちがうものどうしだと分類づけすることがなりたつ。

 人はそれぞれでみんなちがいをもつから、いっしょくたにするべきではない。それとともに、個人としてはみんな同じだから、すべての個人が等しく平等にあつかわれることがいる。その二つがいるのがあり、両方が共にあるのが理想だ。同じであるとするのなら(それぞれの個人の)ちがいを見ないとならないし、ちがうとするのなら(個人として)同じである点を見なければならないだろう。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『中高生のための憲法教室』伊藤真(まこと) 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお)