日本に攻めてきた敵と戦うべきなのか―敵と戦うのがのぞましいことなのか

 もしも日本の国に、敵が攻めてきたらどうするか。日本に敵が攻めてきたら、自分は敵と戦うか。日本の国を敵から守るために、自分が戦うつもりはあるか。テレビ番組でそうした問いかけが視聴者に投げかけられていた。

 視聴者の中には、日本に攻めてきた敵と自分は戦うつもりだと答えた人がいく人もいたという。愛国心をもった視聴者だろう。右派の視聴者だ。

 なにがいやなことなのかといえば、日本に敵が攻めてくることだけではない。正確にいえば、日本に敵が攻めてくることはかなりいやではあるが、それよりも(それと同じくらいに)いやなのは、日本を守るために敵と戦わせられることだ。

 いちばんいやなことは、日本を守るために敵と戦うことを強いられることである。一番やりたくないことがそれなのがあるので、何としてでもそれをやるのを避けたい。

 なぜ日本の国を守るために敵と戦うのがいやなのかといえば、戦前の日本では、それをさせられた人が多くいたからだ。召集の令状である赤紙が送られてきて、うむを言わせないかたちで敵と戦うことを強いられた。赤紙が送られてきて、敵と戦うのを強いられた日本人が多くいた。

 赤紙は日本の国からの命令だけど、なぜその命令に従わないとならないのかがわからないし、なんで日本を守るために敵と戦わないとならないのかもまたわからない。わけがわからないことのために行動をしたくないのがあるから、国の命令で意味がわからない行動をさせられるのを何としてでも避けたい。

 日本の国においては、日本の国に敵が攻めてきて、その敵と戦うことには価値があるとされる。あらかじめそれがあるから、日本に攻めてきた敵と自分は戦うつもりがあるのかと問いかけると、敵と戦うことにさも価値があるかのようになる。あらかじめ何に価値があるのかが決まっていて、答えがすでに決まっているような修辞疑問(rhetorical question)のようになる。こう答えるべきだといった模範の答えのようなものがすでにある。

 おなじ行動をするのでも、日本の国のために、攻めてきた敵と戦うことは何としてでもやりたくない。その行動をやることになったら、戦前において赤紙で敵と戦うのを強いられた日本人と同じことになってしまう。かつて赤紙でむりやりに行動させられたのと、同じようなことをさせられたくない。

 一番させられたくない行動(の一つ)である、日本を守るために攻めてきた敵と戦うことをせずにすむために、いったいどういったことができるのか。一番やりたくない行動をしなくてすむために、何をやったらよいのか。やりたくない行動をやらなくてすむために、何ができるのか。そのためにどんな行動を自分はやりたいか。そういった問いかけを投げかけてみたい。

 自分が一番やりたくない行動をやらされることになったらその時点でもう終わりだ。もう終わりといったことにならないようにするために、そうなるのを防いで行きたい。

 やりたくない行動をやらなくてすむために、どんな行動をやっておくべきかといえば、いろいろにあるけど、一つには国による権力の囲いを広げておくことだろう。権力の囲いは、教育(国による教育の支配)、情報の一元化(情報の統制)、官と民による暴力、弾圧の法体系からなる。作家の保阪正康氏による。

 あらかじめできるだけ権力の囲いを広げるようにして、それがせまくならないようにして行く。権力の囲いがせまくなればなるほど、その囲いの外に出られなくなり、自分がやりたくない行動をさせられることになる。いまの日本は、権力の囲いがどんどんせまくなっていっていて、囲いの外に出られなくなっていっている。それを何とかして広げて行きたいものである。

 日本の敵と戦うよりは、日本の国をどんどん批判して行くことがいる。権威主義になりやすいのが日本だから、権威をもつ日本の国の言うことを聞かせられてしまいやすい。権威をもつ日本の国が、日本を守るために敵と戦えと命じたら、それに従わなければならなくなる。

 たとえ権威があるからといって、日本の国の命令にはできるだけ従いたくない。自分が主体性をもちたいのがあり、権威である日本の国が言っていることだから正しいだろうとはしたくはない。何が正しいのかを見て行くさいには、権威をもっている日本の国の言うことややることをうたがうことがいり、日本の国を批判して行くことがいる。同じ勇気を出さないとならないのであれば、敵と戦うことではなくて、日本の国を批判することに勇気を持ちたいものである。

 参照文献 『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』なだいなだ 『正しく考えるために』岩崎武雄 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤一利(はんどうかずとし) 保阪正康(ほさかまさやす)