憲法と、反基礎づけ―基礎づけ主義と、反基礎づけ主義

 憲法を変える。そのさいに、なにが足場になっているのかがある。

 足場がしっかりとしているかどうかを見てみると、どういったことが浮かび上がってくるだろうか。足場となるものの不在がそこから浮かび上がってきそうだ。

 憲法を意識するのであれば、それを変えるかそれともそのままにして守るかがある。日本の国を意識するのだと、日本の国はこういったものだといったようなことを頭に思いうかべることになる。

 いっけんすると、憲法を足場にできたり、日本の国を足場にできたりするようでいて、じっさいにはそれができなくなっている。憲法は足場にはならないし、日本の国も足場にはならない。

 よくよく見てみると、みんながそれによれるような、確かな足場とはいえないのが憲法だろう。なぜ憲法を守らないとならないのかの、最終の根拠はない。それがあることもあり、日本では憲法がやぶられまくっている。憲法があっても、やぶられまくっているのなら、意味が欠如してしまう。意味のない憲法を変えても(改正しても)意味がない。憲法は守られてはじめて意味をもつものだろう。

 しっかりと憲法が守られているのであれば、まだ憲法が足場になるといえるけど、やぶられまくっているのであれば、それはいくらでもやぶれることをしめす。白いものを黒だと言うことがいくらでもできてしまう。白いものを黒だと変えても(改正しても)、白いものを黒いものだと言ったり黒いものを白いものだと言ったりすることがいくらでもできるのだからさしたる意味はない。

 足場になっているのであれば、憲法があるのや、日本の国があることの意味があるけど、もはやそれらが足場にはならなくなってしまっている。それがそうだからそうなのだといった、自己循環論法であるのが、憲法や日本の国だろう。

 それがそうだからそうなのだとしか言いようがない。どうどう巡りのものなのが憲法や日本の国だ。どうどうめぐりのものなので、そのことを隠したうえでしか、足場としての憲法や日本の国はなりたたない。どうどうめぐりではないとしているけど、じっさいにひと皮をめくれば、それがそうだからそうなのだといった自己循環論法になっている。

 これこそが憲法なのだとか、これこそが日本の国なのだとすることができなくなっている。かりにいまの日本の憲法を守るのにしても、それに不満をもつ人がおきてしまう。いまの憲法は変えたほうがよいとする人がおきてしまう。

 いまの時点の憲法を、かりに一つの枠組み(paradigm)であると言えるとすると、その枠組みは完全に安定しているものではない。いついかなるさいの、どの時点の憲法であったとしても、枠組みが完全に安定することはない。

 いまの憲法を変えようとも、また変えなかろうとも(守ろうとも)、いずれにしても枠組みが絶対に静止した形で安定するわけではない。枠組みが作られたり、それが変えられたりすれば、そこで完了するのではない。そこで終わりになるのではない。

 わりあい枠組みが安定しているときと、変動するときのちがいがある。わりあい安定しているとはいっても、完全に安定しているのではない。完ぺきな自明性をもっているものではない。

 人工の構築性をもっているのが枠組みだから、可変性をもつ。憲法を変えようとも、それを守ろうとも、いずれにしても枠組みである点では同じだから、可変性をもっている。

 いまは足場がぐらぐらとぐらついてしまっているのがあり、その不安定さを何とかすることができなくなっている。不安定さをかくすことはできても、それがなくなったわけではない。

 不安定さや不確実さがあり、そこから国家主義(nationalism)や権威主義がおきることになる。たとえ国家主義権威主義によるのだとしても、根本の本質の解決にはならない。足場が不在なのは、どうにもしようがない。それは近代の時代の性格から来ているものだ。

 神は死んだと哲学者の F・ニーチェ氏は言っている。最高の価値が没落した。価値の多神教におちいる。神がいて、最高の価値があるのなら、足場があることになる。安定することになる。近代の時代は、神が死んで、最高の価値がなくなっているから、不安定さや不確実さをまぬがれない。

 憲法を神としたり、日本の国を神としたりすることはできない。憲法を変えようとも、それを守ろうとも、それを神とすることができなくなっている。神は死んでしまったのがあるから、神が死んだ事実を隠すことはできても、その事実そのものを否定することはできづらい。

 憲法を変えようとしたり、日本の国を良しとしたりすることから浮かび上がってくるのは、足場の不在であり、神の死だ。神は生きているかのようだけど、じっさいには死んでいる。神の生と死が、表と裏になっていて、表だけではなくてそこには裏がある。

 表だけではなくて裏を見てみると、神の死があり、それがあらわになる。裏のところにある神の死を隠すために、表がもち出されるのがあり、表だけを見ているといっけんすると神が生きているかのようになっている。裏を見えないようにするために表がもち出されている。

 たとえ表を見るのだとしても、それはあくまでかりの仮象のようなものであり、実体ではない。表は実体ではないから、表だけによるのだとどこまで行ってもそれでよいのだとならない。すっかり落ちつくことがない。表は生であり有だけど、裏は死であり無だから、虚無である。

 裏によって、表が虚無化されつづけるのがあり、いつまでもほんとうの憲法や、ほんとうの日本の国を追い求めつづけなければならなくなる。ほんとうではないのが表であり、それは、裏によって表が虚無化されつづけることから来ている。ほんとうの憲法や、ほんとうの日本の国などどこにもないけど、それがどこにもないのを認めるには、裏を見るようにすることがいる。

 表は、ほんとうのものではないけど、そうかといって、ほんとうのものもまたどこにも無い。近代の時代では、神の死によることで、そうなってしまうから、しかたがない。ほんとうのものがどこかに確かにあるとすると、人間の合理性の限界を超えてしまう。ほんとうのもの(ほんとうの憲法や、ほんとうの日本の国など)は、人間の合理性を超えたところにある、語られざるものや、語りえないものだと言えそうだ。

 参照文献 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『社会学になにができるか』奥村隆編