ロシアの戦争と、言葉による現実の構築―それぞれ(の国の人)が見ている現実がそれぞれでちがっている可能性

 ロシアとウクライナは、戦争をやり合っているけど、それぞれが共に同じ現実を見ているのだろうか。

 言葉の点で見てみると、ロシアにおいてはロシア語が使われている。現実を見るさいに、言葉によって見るのがあるから、ロシアにおいては(ロシアで使われているものである)ロシア語を通した現実の見かたになる。

 ウクライナにはウクライナ語があるとすると、ロシア語とはちがった、ウクライナ語を通した現実の見なし方になる。

 アメリカであれば、英語を通した現実の見なし方になり、中国であれば、中国語を通したものになる。日本であれば日本語を通したものだ。

 それぞれの言葉のちがいがある。それぞれの言葉のちがいによって、それぞれがちがった現実の見なし方になる。

 同じ言葉を使っていても、それぞれの人で言葉を運用する能力がちがう。言葉を使う能力が低ければ、ざつな現実の見なし方になりがちだ。言葉を使う能力が高ければ、より正確な(解像度が高い)現実のとらえ方ができやすい。

 どのような言葉を使っていようとも、現実はたった一つしかないとは言えるけど、それぞれの言葉のちがいが、枠組み(framework)のちがいとしてはたらく。

 白いものが黒いとなったり、朝が夜になったりするような、まったく正反対のものにひっくり返るほどには、現実の見かたがまるっきりちがうようにはならないだろうが、それぞれの言葉によって、白なら白や、朝なら朝のとらえ方にいくらかのちがいがおきていそうだ。

 それぞれの言葉は枠組みとしてはたらくので、それが制約になる。言葉をいっさい抜きにして、じかに現実をとらえられれば、それがいちばん正確な現実のとらえ方になるかもしれない。

 制約は個性とも言えそうだ。それぞれの言葉は枠組みであり、それぞれの個性をもつ。個性が出る。それぞれの長所または欠点をもつ。

 言葉を抜きにすることはできないから、それを通したものになり、現実が言葉によって構築されることになる。それぞれの言葉によって、現実の構築のされ方がいくらかはちがっていそうだ。言葉のちがいによって、それぞれがいくらかはちがった現実を見ている。

 同じ言葉を使っていても、言葉を運用する能力が人それぞれでちがうから、それが制約としてはたらく。言葉の運用の能力を高めるのは、より正確な現実の構築のために役に立つものだ。いちおうはそういうことは言えるだろう。

 言葉の運用の能力が高ければ、かんたんに(すぐに)白か黒かを決めつけないようにできる。一か〇かの単純な図式で割り切らないようにできる。中間の灰色のところをすくい上げることがうまくすればできるだろう。

 うまくすれば、言葉を通してであっても、敵か味方かや悪か善かなどにはっきりと分ける離散(digital)ではなくて、連続性(analog)によることができるけど、へたをすると単純化してしまいやすい。

 言葉の運用のうまいへただけではなくて、ちがう言葉(つまり外国語)によって、現実の見かたを異化するのがあったらよい。ちがう言葉によるのなら、ちがう枠組みになるから、現実を(母語によるのとは)ちがったように見ることができるかもしれない。外国語によることで、母語がもっている制約をはずすことができるかもしれない。

 参照文献 『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』ケネス・J・ガーゲン メアリー・ガーゲン 伊藤守監訳、二宮美樹翻訳統括 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『文章読本丸谷才一構築主義とは何か』上野千鶴子