天皇家の皇族にふさわしい結婚の相手とはいったいどういった人なのか

 天皇家の皇族の女性が、一般の男性と結婚する。婚約の相手となる一般の男性は、金銭でのもめごとなどを抱えているといい、けちがついているところがある。

 皇族の女性が一般の男性と結婚するさいに、あくまでも当事者である二人の意思が重んじられるべきだろうか。それとも皇族としてふさわしい人が結婚の相手になるべきであり、ふさわしくないようなけちがつくような人は結婚の相手としてのぞましくはないのだろうか。

 だれと結婚をするのかは、当事者の自己決定権(personal autonomy)にゆだねられている。そう言えるのがあり、この自己決定権を言い換えられるとするとそれは愚行権とも言われる。

 当事者の自己決定権にゆだねるのではなくて、皇族としてふさわしい人かどうかを重んじるのであれば、他律(heteronomy)のあり方になる。他律のあり方だと、他が口を出すことになる。こういった人がふさわしいとして他が口を出す。ふさわしい人とは、言い換えれば、かくあるべき人であり、かくあるべきではない人とは結婚するべきではないとすることだ。

 他律によって他が口を出すのは、より上位(meta)の立ち場の人が決めることになる。たとえ下位であったとしても、当事者の意思を重んじるのであれば、自律のあり方だ。上位の立ち場にある人は口を出さずに見守る。

 政治においては、下位の人たちによってものごとを決めて行くのは自律のあり方だ。集団が自分たちでものごとを決めて行く。自分たちでものごとを決めるのは、下位の人たちによるあり方だから、上位の立ち場からするともっとよりよい選択や決定が行なえることがある。

 たとえ民主主義によってものごとを決めるのだとしても、まちがったことを決めてしまうことはしばしばある。まちがったことをやってしまうことがある。それは下位によって決めているからであり、上位の立ち場からすればもっとよりよい選択や判断ができることがある。

 下位によるのだと、まちがったことを決めてしまい、まちがったことをやってしまうおそれが出てくるが、それは上位の立ち場から見るとわかることである。上位とはいっても、上には上があると言えるので、より上位に立つことができて、そこには切りがない。

 法の決まりに反しているのであれば、他者に危害が加わるなどのことがおきるから、よくないことになる。法の決まりに反していないとすると、いったいどういった選択や判断が正しいのかは定かとはいえそうにない。

 上位の立ち場に立てば、下位よりもより正しくはなる見こみがあるが、そのまた上位を持ち出すことによって、正しさを相対化できる。上位の上位に立てるから、どういった選択や判断が正しいのかは、完ぺきに基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 あらためてみると、下位か上位かの点でいえば、下位よりも上位のほうが正しくなる見こみがあるけど、民主主義や自己決定権の点からすると、下位であっても当事者なのであれば当事者の意思が重んじられるべきである。そのさいに気をつけないとならないのは、たとえ当事者が決めたことだからといっても、まちがうことがしばしばあることだ。

 できるだけ正しい選択や判断をしようとするのであれば、下位よりも上位のほうが正しくなる見こみがあるけど、そうだからといって、より上位を持ち出すことができるので、上位の上位に立てるから、何が正しいことなのかはわからなくなってくる。まったく揺らぎがないほどに正しい地点としての上位には立つことはできないと言えるのがありそうだ。人間には合理性の限界があるから、まちがうことを避けづらい。

 合理性の限界をもつ中で、たとえまちがいをおかしたのだとしても、じぶんがやったことなのであれば納得が行くことがある。自分で商品を買って、その商品が質の悪いものだったのがわかっても、自分で選んで買ったのだから自分が悪かったのだと見なす。自分で決めたことではなくて、他の人から無理やりに商品を買わされて、その商品の質が悪かったとしたら、自分で決めたことではないから納得が行きづらい。

 まちがったさいに、自己決定権によっているかどうかによって、自分で納得が行くかどうかの点にちがいが出てくる。まちがいを避けられるのであるよりも、人間には合理性の限界があるからまちがいは避けづらいけど、もしもまちがったさいにそれをどのように受けとることができるのかの点にちがいがおきてくる。自己決定権を正当化するさいにはそうしたことが言えそうだ。

 たとえまちがいをいくらかは避けやすくて、正しくなりやすいのだとしても、他が口を出す他律であるのであれば、それがほんとうにのぞましい選択や決定なのかどうかには、あらためて見るとうたがいがおきてくる。自分で決めたことではないからである。自分で決めてそれが正しいのがいちばん理想だから、理想を目ざしたのだとの点からすれば、まちがいがおきたとしても少しは納得しやすいかもしれない。理想はしばしば現実化しづらいものではあるが。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しさとは何か』高田明典(あきのり)