国葬と、状況―かつて(追憶)としての安倍元首相の生前のあり方(反動、復古)と、いまの時点との、時間のずれ(gap)

 国葬をやる。殺された安倍元首相の国葬をやることが予定されているが、それに反対する声も少なくない。

 国葬は、いったいどのような状況において行なわれることになるのだろうか。

 状況では、交通で、いまとかつてのいまかつて間で見てみたい。

 どのような状況であれば、国葬がよしとされやすいのかでは、いまよりも、かつてのほうがそうなりやすかった。かつてとは、たとえば、戦後の、一九四五年から一九七〇年代くらいまでだ。

 かつてであれば、まだ国のもつ力がそれなりに高かった。いまよりも世界主義(globalization)がそこまですすんでいなかった。

 かつてよりもいまは世界主義が進んでいるので、国のもつ力がどんどん落ちていっている。国の重要度が下がっている。国が、国の中を制御できなくなっていて、統治(governance)できなくなっている。

 かつてなら、まだ国葬が受け入れられやすい状況だったかもしれないけど、いまは、それがどんどん受け入れられづらくなっている。

 どういう状況において何をやるのかがあるけど、いまの時点で、国葬をやるのは、状況にそぐわない。いまは、世界主義が進んでいるので、一つの国であるよりも、国を超えた脱国家主義(trans-nationalism)が重みをもつ。

 国葬に、ほかの国の人たちをまねくのは、国葬の主役である殺された安倍晋三元首相が重要なのであるよりも、脱国家や越境(trans)が重要であることをあらわしていそうだ。日本の国が重要であったり、安倍元首相が重要であったりするのであるよりも、国どうしの交通が重要なのである。

 どういう政治家が、国葬をやるのに値するのかでは、かつてであれば、それに値する政治家が中にはいたかもしれない。かつてに比べて、いまの時点では、国葬をやるのに値する政治家がどんどんいなくなっている。

 かつてであれば、まだ国がもつ力がそれなりにあり、それなりに力がある政治家がいるにはいただろう。かつてに比べて、いまの時点では、政治家の質がどんどん下がっていっている。政治家の、人としての厚みがどんどんうすくなっていて、うすっぺらい政治家が増えている。政治家が育たなくなっている。ゆとりがなくなっているのである。

 大つぶの政治家が、かつてであれば少しはいたかもしれないが、いまの時点では、小つぶの政治家しかいない。かつてよりも、いまの時点のほうが、政治家の人材がきわめてとぼしくなっている。めぼしい人材が、政界にはいない(ひとにぎりしかいない)。

 ふさわしい状況のときに、ふさわしいことをやることがいるけど、いまは、政治家の質もだめになっているから、国葬をやるのにふさわしくなくなっている。かつてよりもいまのほうが、状況として適さなくなっている。かつてといまの、いまかつて間の交通があって、その状況のちがいを十分にくみ入れるようにしてみると、国葬をやるべきだとする発想は出てきづらい。

 状況の点に重みを置いてものごとを見てみると、かつてであればまだしも、いまの時点では、世界主義がすすんでいて、国の存在感のようなものが弱まりつづけている。

 参照文献 『グローバリゼーションとは何か 液状化する世界を読み解く』伊豫谷登士翁(いよたにとしお) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『政治の終焉』御厨貴(みくりやたかし) 松原隆一郎(まつばらりゅういちろう) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一