国葬と、政治家のすごさや偉大さ―脱産業社会(post-industrial society)における、適正な評価づけの困難さ

 殺された安倍元首相の国葬をやることに、五割くらいの国民が反対しているという。

 国葬が行なわれる安倍晋三元首相についてを、どのように評価づけできるだろうか。

 評価づけをするさいには、ゲシュタルト心理学で言われる図がら(figure)と地づら(ground)をもち出せる。

 安倍元首相の個人に焦点を当てるのは、図がらを見ることだ。

 図がらである、政治家の個人に焦点を当てすぎている。そこにまずさがある。

 いっけんすると、政治家の個人である図がらが重みを持つようではあるけど、じっさいにはちがう。図がらよりも、地づらのほうがより重みをもつ。

 あまり光が当てられないのが地づらだけど、地づらのほうが重要性が高い。

 図がらと地づらは反転させることができて、図がらを地づらにしたり、地づらを図がらにしたりすることがなりたつ。

 地づらに当たるのは、安倍元首相をまわりで支えていた人たちがいる。そのほかに、反安倍がいる。反対勢力(opposition)がいる。

 安倍元首相は図がらであり地上にあったが、地づらに当たるものは地下にあって目にはふれづらい。地上にあるものよりも、地下にあるものが重要だったのである。木でいえば、地上にある葉や幹よりも、地下にある根のほうが大切である。

 何を評価するべきかや、何がすごいのかを見てみると、安倍元首相がすごかったのではない。図がらがすごかったのではなくて、地づらがすごい。図がらではなくて、地づらこそが評価されるべきなのである。

 何が日本を支えていたのかを見てみると、安倍元首相が日本を支えていたのではなかった。図がらではなくて、地づらに当たるものが、日本を支えていた。図がらの力ではなくて、地づらの力によって、かろうじて日本は(首の皮一枚で)持ちこたえてきているのである。

 何かと目が向けられがちなのが、政治家の個人である、図がらだ。評価されやすいのが図がらに当たるものである。そこから、安倍元首相が、あたかもすごかったかのように見なされているけど、それは過大な評価だ。図がらが過大に評価されることで、地づらが過小に評価されてしまっている。

 すごいと言われているものは、それほどすごくはなく、過大に評価されすぎている。すごいと言われていないものは、じつはすごいのがあり、過小に評価されてしまっている。評価の構築を、脱構築(deconstruction)してみて、ちがった評価に修正してみることがなりたつ。評価を脱構築するさいには、優であるとされているもの(たとえば安倍元首相)を劣にしたり、劣とされているものを優にしたりすることができる。

 参照文献 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明構築主義とは何か』上野千鶴子