安倍元首相の国葬に、法の根拠が欠けているために、裁判への訴えがおこされている―根拠の強弱と、結論の数

 殺された安倍元首相の、国葬を行なう。国葬をやるさいの、そのもととなる根拠のところを見てみるとどういったことが言えるだろうか。

 国葬のもとにある根拠のところを見てみると、根拠がしっかりとしているとはいえそうにない。

 いったいどういった根拠があれば、国葬をやることがみちびき出されるのかがある。

 しっかりとした根拠としては、あらかじめ事前に、法の決まりで、こういう条件のときには国葬をやる、と決まっているかどうかがある。

 法の決まりで決まっていれば、罪と罰でいえば、罪刑法定主義のようになっているから、こういう罪をおかせばこういう罰を受けると定められていることになる。

 思い立ったときに、とつぜんにやることを決めるのだと、胸三寸で決めてしまう。胸のうちで、どういうふうに思うかによって、やるのかやらないのかが左右されてしまう。

 すごい強い根拠があるのであれば、そこから一〇割に近いくらいの形で、国葬をやることがみちびき出されることになる。ていどとしては、何々だ、と言い切れるものだ。

 強さと弱さでは、強い根拠が欠けていて、弱い根拠によっているのが、安倍晋三元首相の国葬だ。弱い根拠しかないと、国葬でいえば、それをやることがいるかもしれないし、いらないかもしれない、となる。ていどとしては、何々だろう、としか言えないものである。何々だ、とは言い切れない。

 迷いがなくて、この一本の道を進んで行けばよいとなるのが、強い根拠があるときだ。一個の結論しかみちびき出されない。ほかの結論が出てこないから、一個だけの意味になり、一義になる。

 いろいろに迷いがおきてきてしまい、割り切ることができなくなるのが、弱い根拠のときだ。いっけんすると、根拠が一個しかないようであっても、よく見てみると、隠れたところにいくつも根拠があることが見えてくる。根拠がいくつもあると、いくつもの結論をみちびき出せる。一つひとつの結論の力が弱くなる。

 まったく迷うことがないような、確かなあり方になっているのかどうかを見てみると、結論を一つにできるほどには、国葬をやることが確かにはなっていない。うたがうことができないほどには確かではない。

 事件がおきて、安倍元首相が殺されたことは、事実としては確かである。そこから、国葬をやることがいるのかどうかは、もしも、そうとうに強い根拠があれば、まちがいなく国葬をやることがいるのだと言い切れる。結論を一個だけにすることがなりたつ。

 事件がおきたことを受けて、国葬をやることがいるのだと結論することができるのかと言えば、必ずしもそう結論することができるとはかぎらない。ちがうように結論することもいろいろになりたつ。結論を一個だけにすることができるのでないと、強い根拠があることにはならず、確かな支えがあることにはならない。ぐらぐらしていることになる。

 いまいちど、改めて見直しをしてみて、事件がおきたことから、国葬をやることまでの、そのとちゅうのあいだの過程を見てみたい。とちゅうのあいだの過程を、そうとうにていねいに、小刻みに歩むようにして行かないと、粗さがおきてくる。

 じっくりと、ていねいに歩むようにしてみれば、道が(国葬へとつづく)一本ではなくて、何本もあることがわかることがある。国葬へとつづかない道が何本もあるのであれば、どの道がいちばんふさわしいのかを、じっくりとていねいに見て行かないとならない。一つひとつの道は、相対化されざるをえない。

 逆の流れで、国葬から事件へ、といったふうにしてしまい、国葬をやることがありきになってしまっている。逆の流れにしてしまうのではなくて、事件から国葬への流れにたち戻るようにして、事件がおきたことはたしかなのだから、そこから出発して行く。

 少しずつていねいに歩むようにして行き、どこまでが確かなことだと言えて、どこからが確かなことだと言えないのかを、ふ分けして行く。確からしさがあやふやなものが見つかったら、そこでいったん立ち止まってみる。あやふやなものを、あやふやなままにしたり、あやふやではないようにしたりしないようにする。

 粗くではなくて、ていねいに見て行かないと、(たとえ事件がおきたことはたしかなのだとしても)まちがった結論をみちびき出してしまいかねない。出発の地点はたしかだけど、とちゅうがいい加減だと、到着の地点がまちがってしまう。

 参照文献 『論理表現のレッスン』福澤一吉(かずよし) 『細野真宏の数学嫌いでも「数学的思考力」が飛躍的に身に付く本!』細野真宏 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『論理トレーニング』野矢(のや)茂樹