国葬と、状況(や条件)―状況である、もしもの if 節(もしもこうであるのなら)によって、判断がちがってくる

 殺された安倍元首相の国葬をよしとしない人が、国民の五割くらいいるという。

 五割くらいの国民が、国葬をよしとしないことを、どのように見なせるだろうか。

 国葬をよしとすることは、必ずしも安定していない。

 価値が関わってくるのが国葬であり、安倍晋三元首相への価値づけがどうかによる。

 自由に価値づけをすることができるのがあるので、国葬にまちがいなく価値があるとしたり、安倍元首相にまちがいなく価値があるとしたりはできづらい。

 国葬をやるのに値するような、すごくすぐれた政治家だったのが安倍元首相なのであれば、国葬が行なわれることがよしとされやすい。

 いろいろな条件を満たしていることがいるのがあり、その条件が満たされていないと、国葬に反対がおきてくる。

 必要となる条件や、十分といえる条件が、満たされているかどうかがある。

 どういった条件が必要なのかで、その必要となる条件を満たしていれば、国葬をやることが良しとされやすい。

 条件が満たされていなかったり、条件とは合わなかったりすれば、矛盾がおきてくる。

 正の条件だけではなくて、負の条件をもち出すこともなりたつ。負の条件では、国葬をやるのに値しないような、いろいろと悪いところがあった政治家なのが安倍元首相なのであれば、国葬をやらないほうがよい、となる。

 負の条件だと、悪い(悪いところがいろいろにあった)政治家であれば、国葬はやるべきではないとなる。安倍元首相が、悪い面をいろいろに持っていたのであれば、国葬をやるべきではないことになる。

 国葬をやるべきなのであれば、安倍元首相には、悪いところがぜんぜん無かったことになる。国葬をやろうとしているのにもかかわらず、安倍元首相に、悪いところがいろいろにあって、悪い政治家だったことがわかれば、矛盾がおきる。

 いろいろな条件があり、それが満たされていたり、それに合っていたりすれば、国葬を行なうことになる。そうであるのだとしても、条件は、いろいろにあるから、いろいろに変えてみることがなりたつ。条件として、いろいろな仮定をとることができる。安倍元首相が、良い政治家だったと仮定することもできるし、悪い政治家だったと仮定することもなりたつ。

 条件や仮定がちがえば、そこから導かれることもちがってくる。条件や仮定を抜きにして、とにかく国葬をやるのだとしてしまうと、何のために何をやるのかの、何をやるのかのところが、固定化してしまう。何をやるのかのところを固定化させてしまうのは、よくないことである。

 何のためにの、条件や仮定は、いろいろに変えることができる。何のためにから導かれる、(何のために)何をやるのかは、固定化しないようにするのがのぞましい。

 何をやるのかのところを固定化してしまうと、国葬をやることが強制になってしまい、自由がなくなる。何のために何をやるのかとか、何だから何をやるのかがあり、それらのはじめの、何のためにや何だからのところは、条件や仮定であり、それらはいろいろに変えられる。何をやるのところもまた、いろいろに変えられる。

 条件によって見てみると、国葬をやるべきかどうかは、自由なものであり、何が何でもやらなければならないものではない。やってもよいかもしれないし、やらないほうがよいかもしれない。自由によらずに、強制で国葬をやろうとしてしまうと、矛盾がおきることがある。矛盾がおきると、国葬をやるべきではなかったり、やるのに値しないのであったりするのにもかかわらず、それがなされることになる。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『正しく考えるために』岩崎武雄