一部の民放のテレビ番組は、反カルト宗教で番組をつくっていて、がんばっている―全体としては、がんばりがぜんぜん足りない

 自民党と、韓国の新宗教(旧統一教会)が、関係し合う。交通し合う。

 自由民主党は、韓国の新宗教とは、集団としては関係していないと言う。そう言いながらも、防衛相なんかは、個人として関係していたと述べている。

 自民党や、韓国の新宗教が言っていることを、そのまま丸ごとうのみにしてしまってよいのだろうか。

 どのようにして受けとったら、より面白くなるのかがある。面白いかどうかによるのだと、やや不謹慎かもしれないが、より面白い受けとり方としては、自民党新宗教が言っていることをそのまま丸ごとうのみにしないようにする。うたがって行く。

 娯楽では映画があるけど、アメリカのマイケル・ムーア監督の作品のようなやり方にしてみる。ムーア監督の作品では、方法論として、西洋の弁証法(dialectic)のやり方がとられている。

 弁証法で、正と反が対立している中で、正の言っていることだけをもってしてよしとはしない。正の言っていることを、そのまま丸ごとうのみにはしない。それと対立している反のこともとり上げて行く。

 自民党新宗教が言っていることを、そのまま丸ごとうのみにしてしまうと、弁証法では、正つまり合とすることになる。正が言っていることがまちがっていたとしても、それがそのままたれ流されてしまう。

 もしも映画を作るのだとすれば、正と反の二つの立ち場があるとして、正の言っていることだけをとり上げるのだと、面白くなりづらい。正が言っていることだけをとり上げるのだと、正をよしとする映画になってしまい、正の宣伝になってしまう。

 映画を作ることでいえば、日本は映画を作るのが下手であり、面白くないものを作ってしまっている。自民党が言っていることをそのまま丸ごとうのみにして、それをたれ流す。韓国の新宗教が言っていることを、そのままうのみにして、たれ流す。正が言っていることを、そのままうのみにして、たれ流すことが多い。

 いまやっているテレビ番組で、面白いと見なせるのは、自民党の言っていることをそのままうのみにしなかったり、新宗教の言っていることをうのみにしなかったりするものだろう。自民党新宗教が正だとすると、その正ではなくて、反の立ち場に立って、反カルト(cult)宗教のような番組を報じる。

 映画やテレビ番組では、正と反があるうちで、正の立ち場にだけ立ってしまうと、面白くなりづらい。面白さが欠けるだけではなくて、真実をとらえづらい。真実をとらえづらいから、そこに真実味がなくなり、(うそのようになり)面白くなくなるとも見なせる。

 日本では、正と反があるうちで、正の立ち場に立ちやすくて、反をとり落とすことが多い。真実が何なのかが見えてきづらい。ものごとが隠ぺいされてしまうことが多い。ムーア監督の作品であれば、日本とはちがって、おおい(cover)をかけてものごとを隠そうとするのではなくて、その逆に、おおいをとり去ろうとするねらいをもつ。ものごとの発見(discover)である。

 正と反があるうちで、反の立ち場を十分にくみ入れて、正と反をぶつけ合わせるのでないと、真実が浮かび上がってきづらいから、面白みが出づらい。真実味がないとあまり面白いとはなりづらいが、日本では、真実味が欠けていて、面白みがないものが多い。日本のテレビ番組なんかをきびしく見てみればそう見なすことができる。弁証法の方法論がとられることがきわめて少ないからなのがある。

 交通においては、正と反をぶつけ合わせるのは、正と反を交通させることであり、それによって合の止揚(aufheben)にいたらせる。合にいたることで、異交通になる。正だけでもなく、反だけでもない、よりふさわしい見なし方ができる。日本では、(正と反によって)合にいたることがなく、異交通になることがおきづらい。上から強引にものごとを押しつけるような、のぞましくない交通のあり方になっている。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『対の思想』駒田信二(しんじ)