共産党と憲法とのゆ着(同一性)と切りはなし(差異性)―共産党と憲法とを切りはなしてみる

 反共はよくない。共産党はそう言っているが、それは当たっていることなのだろうか。

 党や、党の長を批判した党員を除名したのが日本共産党だ。それについて、共産党を批判するのは、党に攻撃をしていることであり、反共だとしている。正しいことをやっている党の力を落とそうとしているのが反共だという。

 総合(積分)によってしまっているのが共産党だろう。総合ではなくて、分析(微分)によるようにしたほうがよい。そう見なしてみたい。

 総合によってしまっているのが共産党なので、いくつかのことがごちゃごちゃに混ざり合っている。ごちゃ混ぜになっていて、切り分けられていない。

 分析によるようにすれば、ものごとを適したように切り分けられる。切り分けたほうがとらえやすくなることがある。

 いまの日本の憲法をよしとしているのが共産党だ。憲法を良しとしているのは良いことだけど、憲法共産党とがごちゃ混ぜにされてしまっている。その二つを、分析によって切り分けて行きたい。

 何がもっとも大事なものなのかといえば、共産党がもっとも大事なのだとはいえそうにない。もっとも大事なのは、いまの日本の憲法だ。

 いちばん大事なものなのが共産党なのだとしてしまうと、共産党主義(共産主義)といったことになってしまう。

 いちばん大事なものなのがいまの日本の憲法なのだとするのなら、立憲主義(憲法主義)になる。近代の立憲主義(constitutionalism)であれば、まっとうなあり方になる。

 憲法が大事なのだとしているのが共産党にはあって、それは良いことなのだけど、それが、共産党が大事なのだといったように横すべりしてしまっている。憲法から共産党へといったように、大事なものがずれてしまっていそうだ。

 すごく大事なものなのが憲法だけど、それであったとしても、反憲法もまたあってよいものだろう。反憲法があることによって、憲法のあり方(内容など)を批判としてぎんみすることがなりたつ。

 世俗を超えた宗教なんかをもち出せば、反憲法の絶対の真理なんかを言うことができる。宗教の、信仰の自由はあってよいものだろう。

 宗教によってしまうと、欠点があって、物語になってしまうから、広く全ての人に当てはまるのではなくなってしまうのがあるのはたしかだ。とりわけいまの時代は、(宗教による)大きな物語はなりたちづらい。

 反共は良くないのだとしているのが共産党だけど、共産党のあり方を批判としてぎんみするためには、反共もまたばあいによってはあってよいものだろう。

 西洋の哲学でいわれる弁証法(dialectic)でいえば、共産党は正(thesis)であり、反共は反(antithesis)だ。反を抜きにして、正つまり合(synthesis)としてしまうと、ちゃんとした合にはなりづらい。

 ちゃんとした合にして、止揚(aufheben)するためには、反を抜きにしないことがいる。正つまり合としてしまわずに、反をきちんとくみ入れて行く。反をしっかりとくみ入れたうえで、合の止揚にもって行く。それがのぞましい。

 分析によらないで、総合にしてしまっていて、反を抜きにした正つまり合にしているのが共産党だろう。反に当たるものが反共なのだとすれば、それを抜きにするのではなくて、それをくみ入れるようにして行く。そうしたことがあってよいものだろう。

 総合で、反を抜きにした正つまり合にするのだと、いさぎよいあり方になる。いさぎよいのがだめなことがしばしばある。いさぎよくやるのではなくて、ねばるようにして行く。反に当たるものを、否定や消極として見るのではなくて、それの積極のところを見て行く。なるべくねばるようにして、反がもっている積極の意味あいを見るようにできればのぞましい。

 参照文献 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『対の思想』駒田信二(しんじ) 『はじめての哲学史竹田青嗣(せいじ)、西研(にしけん)編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹(なかまさまさき) 『微分積分を知らずに経営を語るな』内山力(つとむ) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司