共産党と、個人がもっている自由―思うのや考える自由と、そのほしょう

 党に属していた人を、除名した。共産党がそれをしたことについて、どのように見なせるだろうか。

 憲法でいわれている、結社の自由をもち出しているのが日本共産党だ。

 結社の自由とはべつに、思想や表現の自由をもち出してみたい。

 学者のカール・ポパー氏の、世界三の理論では、世界一は物だ。世界二は心や意図だ。世界三は観念によって作られたものだ。世界二(精神)によって、世界三のもの(言葉、文章、制度など)が作られる。

 いまの日本の憲法では、個人の、世界二の自由がほしょうされている。個人が、心の中に何をどう思おうと、その個人の自由だ。思想の自由(freedom of thought)である。

 頭の中で、個人が、何をどう考えようと、自由である。その自由を、政党がうばうことはできないのではないだろうか。たとえ共産党であるといえども、個人が頭の中でどういうふうにものごとを考えるのかの自由をうばってよいのだとはいえそうにない。その自由をうばえそうにない。

 思想の自由がほしょうされているのであれば、その思想を表現する自由もまたほしょうされることがいるものだろう。世界三の自由をほしょうする。

 個人の、世界二の自由をほしょうする大切さがあって、そのうえで、なおかつ世界三の自由をほしょうするといった流れになる。

 考えてはいけない、思ってはいけない、といったように、個人が何かを考えることを禁じるのはよいことだとはいえそうにない。色々なことを個人が自由に考えてよいし、思ってよい。考えたり思ったりしてよいのがあり、そこから、それを表現してもよいとする流れにして行きたい。

 どんどん個人が色々なことを考えていったり思っていったりするのをうながす。その考えたり思ったりしたことを、どんどん表現して行く。それをうながして行く。どんどん思い、どんどん考えて、どんどん表現して行くのである。

 共産党による共産主義をよしとする考え(thought)もあれば、それとはちがう反共の考え(thought)もまたあるものだろう。共産主義にせよ、反共にせよ、それらは色々にあるうちの考えの一つであって、個人がどういうふうに考えるのかは自由であるのだとしてみたい。

 反共の考えは持ってはいけないとしてしまうと、個人の頭や心の中に介入することになりかねない。個人がもつ、思想の自由がしんがいされてしまいかねないのがある。個人の内面に介入してしまうおそれがある。

 すごい大事なものなのが、個人がもつ思想や表現の自由だろう。それらの自由はすごい大事なものなのだから、できるかぎり全面にほしょうされていたほうがよい。かりにそれらの自由を制限することがあるのだとしても、それはそうとうに客観の理由がないとならないだろうし、なおかつ最小限のものでなければならない。

 制限することがないのにこしたことがないのが、思想や表現の自由である。それらの自由を制限してしまうのだとしたら、個人が損をこうむってしまうことになる見こみがある。個人に損をさせてしまっている。

 行動の原理として、快楽や幸福を重んじる立ち場なのが功利主義だ。功利主義の点からすると、効用の量が多くあったほうがよい。個人の自由ができるかぎりよしとされて、自己決定権(愚行権)があったほうが、そうでないよりも、個人の効用(幸福)の量が高まるのがのぞめる。

 できるだけ、色々なことを好きに言えたほうが、個人が得られる効用の量は高まる。色々なことについて、自分で好きに言えたほうが、そこから効用を得られるのがあるから、個人にとってはよいあり方だ。あれを言っちゃだめとか、これを言っちゃだめとなっていると、個人が効用を得る機会が減ってしまう。功利主義からはそうとらえることがなりたつ。

 個人の思想や表現の自由を党がうばい、それを制限するのだとすれば、党が不当なことをやっている見こみがありそうだ。ぜったいに党が正しいことをやっているとは言い切れそうにない。

 参照文献 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『神と国家と人間と』長尾龍一 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『うたがいの神様』千原ジュニア 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ)