共産党を、重んじるべきか、軽んじるべきか―何を重んじるべきなのか(共産党を重んじるべきなのか)

 共産党は正しい。反共はまちがっている。そう言うことができるのだろうか。

 なにが大事なことなのかを見てみたい。

 日本共産党をよしとしている人にとってみれば、共産党が大事だ。そうした共産党をよしとしている人を、ひとまずわきに置いておきたい。

 どういったことが大事なのかといえば、共産党が大事なのではない。それとはちがって、大事なのは思考である。それとともに、いまの日本の憲法もまた大事だ。

 共産党が大事なのであるよりも、思考が大事なのであり、またいまの日本の憲法が大事だ。そう見なしてみたい。

 なぜ共産党よりも思考のほうがより大事なのかといえば、かつての日本をふり返ってみることができる。

 いまとかつてのいまかつて間(かん)の時間の交通がある。いまかつて間の交通は、交通の様態(mode)では異交通だ。いまとかつてを、ちがう時点のものとして見て行く。かつてを想起して行く。かつてを忘却化するのではない。

 戦前の日本では、共産党がだめだとされていた。悪いものだとされていた。排除されていたのである。だから、共産党を排除するのは、戦争の前夜だ。共産党はそう言っている。

 反共は戦争の前夜であり前ぶれなのはあるとしても、そのさいの反共とは、思考の禁止(停止)でもあることに気をつけたい。戦前の日本で共産党が排除されたのは、日本人に思考をさせないようにするためだったのがある。思考を禁じさせるためだったのである。日本人が自発に考えさせないようにした。

 たとえ共産党をよしとするのであったとしても、思考をしなかったり、思考を禁じたりするようでは、本末転倒なところがある。

 共産党をよしとすることが、思考をすることにつながるかといえば、必ずしもそうとは言い切れそうにない。だれにでも、これは不快だなと思えるものがある。共産党にとっては、共産党を批判してくるものは不快なものに当たる。共産党への批判は、不快だ。

 だれにでも不快なものがあるけど、そのさいに、その不快さに耐えるようにする。ちょっとだけ耐えてみる。耐えるようにしながら、その不快さについてを思考するようにする。それがいるのがある。

 共産党を批判してくるものがあるけど、そうした不快なものを、共産党は耐えられているのかといえば、耐えられていない。耐えられなくなっている。不快さについて、思考できていない。耐えられず、思考できていないから、共産党への批判をすべて一くくりにしていっしょくたにして反共だとしてしまっている。

 日本の国の政治の中では、共産党はかなりがんばっていて、良いことを言ったりやったりしているのが多いけど、何が大事なものなのかをはきちがえているところがなくはない。とらえちがいがないではない。共産党が大事なのだとしてしまっているところがあり、そこについては批判をしたい。

 共産党が大事なのであるよりも、思考が大事なのであり、またいまの日本の憲法が大事なのがある。反共が戦争の前夜であるだけではなくて、(上からの)思考の禁止や停止が戦争の前夜なのがあるから、個人ができるだけどんどん自由に思考するのをうながしたほうがよい。

 個人が自由に色々に思考するのは、憲法でいわれる思想や良心の自由(freedom of thought)だ。個人の内面の自由である。個人が自由に思考をするさいに、知と権力について気をつけたい。知識の権力性があり、知識が上から下に押しつけられることがおきる。そうした権力による知識の交通を批判することがいる。権力は、交通の様態では反交通であり、上と下とのあいだに差をつけるものだ。上が正しくて下はまちがっているといったものだ。

 参照文献 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『思考のレッスン』丸谷才一 『「本末転倒」には騙(だま)されるな 「ウソの構造」を見抜く法』池田清彦精神分析 思考のフロンティア』十川幸司(とがわこうじ) 『現代思想を読む事典』今村仁司