共産党と、反共の、遠近法(perspective)―日本の国にとっての共産党の距離の遠さと、共産党にとっての反共の距離の遠さ

 批判の声をあげた党員を、除名したのが共産党だ。

 党を批判してくるのは、党を攻撃することだ。攻撃はよくないことであり、反共だ。日本共産党はそう言っているけど、それはふさわしいとらえ方なのだろうか。

 答えが一つだ。道は一つだ。この道しかない。そうしたものは、定義づけがはっきりとしたものだ。定義が明確な問題だ。

 答えが一つだけではない。道がいろいろにあって、どの道を行けばよいのか迷う。定義がはっきりとしていないものだ。定義が不明確な問題だ。

 いまの時代は、定義づけをはっきりとさせづらい。そうしたことがらが多い。こうすればよいのだと、はっきりと定めづらいのがある。

 どのようにしたら、定義づけをはっきりとさせられるのかといえば、その一つには、戦争をおこすことがあげられる。戦争の中では、敵をたおす。敵をやっつける。敵をたおして、自分たちが勝つ。やるべきことをはっきりとさせられる。

 かなり単純な、味方と敵による二分法になるのが、戦争だ。戦争をやっている中では、定義づけをはっきりとさせられる。

 集団が、全体として酔っているのが、戦争をやっているさいちゅうだ。集団が酔いを引きおこしているのがあって、その中では、あたかも定義づけをはっきりとさせられるかのようなさっかくが引きおこる。

 戦争が終わって、集団の酔いがさめてみると、定義づけをはっきりとさせることができていたのが、じつはさっかくだったことが分かってくる。すごいふくざつなありようなのが現実だから、定義づけをはっきりとさせられないことが多い。

 反共は悪いことであって、共産党はよい党だ。そういうふうにしてしまうと、定義づけをはっきりとさせることができるけど、それだと単純化しすぎてしまうおそれがある。

 体でいえば、大きい血管である大動脈や大静脈があって、小さいものである毛細血管もある。時代の流れとしては、大きい血管から、小さい毛細血管へと移っていっている。細分化していっている。

 古いあり方なのが、大きい血管のあり方だ。制度としてはそれが残りつづけているけど、げんじつは毛細血管になっていっているのがあって、制度と現実とがずれてしまう。

 大きい血管のあり方なのが、一般化することだけど、小さい毛細血管のあり方なのが、個別化することだ。一般化するのだと、大きい血管のあり方だから、個別化されているものをとり落とす。個別化されているものをすくい取ることができづらい。

 それぞれの人が、どういうことで悩んだり苦しんだりしているのかが、それぞれでちがう。ことわざでいう十人十色(It takes all sorts to make a world.)なのがあり、赤なら赤とか、青なら青といったように、はっきりと定義づけしづらい。

 戦争はたしかに悪いことであり、するべきことではないが、いまロシアと戦争をやっているウクライナは、国として戦争をやることへの動機づけ(motivation)が高い。ウクライナが、国として戦争をやることへの動機づけが高いのは、どこからどう見てもぜったいに悪いことだとまでは言い切れないことかもしれない。

 戦争がおきていなくて、平和な中であったとしても、生きていることがつらすぎて、死にたい人もいるだろう。生きることに希望がもてなくて、絶望におちいっていて、希望は戦争(戦争を希望する)といった思いをいだく人もおきてくる。

 すごく色々に良いことを言ったりやったりしているのが共産党ではあるけど、それはそうとして、反共は悪で、共産党は善といったように単純な定義づけは必ずしもできそうにない。いまの時代は、色々なものごとをはっきりと定義づけしづらいのがあり、戦争をやっているさいちゅうのように目標をはっきりと定めづらく、全体があてどなく漂流しているところがある。目標を失っているところがある。

 食べるものがなくてみんなが飢えているときなんかだったら、からっぽの時代だから、みんなで目ざすべき目標を共有化しやすい。食べるものをとりあえず手に入れられるようになって、あるていど目ざすべき目標を達してしまうと、いっぱいの時代だから、何を目ざすべきかを定めづらくなる。いまの日本は、物を作りすぎていて、いっぱいの時代のところがあるから、そうした中では、色々な排除がおきやすい。人の排除などがおきやすい。

 いっぱいの時代では、排除で、いじめや差別なんかがおきやすくなるから、それに気をつけたい。できるだけ可傷性(vulnerability)をもった人を悪玉化したり排除したりしないようにしたい。排除をしてしまいがちなのは、たとえ(色々に良いことを言ったりやったりしている)共産党であるといえども、例外ではないかもしれない。

 反共をおもてなしして、客むかえ(hospitality)をして、よき歓待(かんたい)をすることができるのだとすれば、共産党はすごい良いことをやっていることになるが、それは現実にはむずかしいことだ。反共をおもてなしして客むかえをすることは、できづらいことだから(こそ)、やる値うちがある。

 客むかえは、戦争でいえば、敵をたおすのではなくて、敵をむかえ入れて、お互いに交わり合うようなことだ。味方どうしだったら、交わり合うのはかんたんだけど、敵と交わり合うのはむずかしい。

 参照文献 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章、道田泰司他訳 「排除と差別 正義の倫理に向けて」(「部落解放」No.四三五 一九九八年三月)今村仁司 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ 『非国民のつくり方 現代いじめ考』赤塚行雄 今村仁司他 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき四三七の事柄』クリス・ヘッジズ 伏見威蕃(いわん)訳 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『「定常経済」は可能だ! (岩波ブックレット)』ハーマン・デイリー 枝廣(えだひろ)淳子(聞き手)