五輪のテレビ番組や記録の映画と、文化や芸術のもつ二重性―現実の絶対化と相対化

 東京五輪についての NHK のテレビ番組では、適していない字幕が使われた。五輪の反対のデモで、参加者が見返りにお金を受けとったとする字幕が使われた。なにかについての反対のデモでは、参加者がお金をもらっているかのように印象づけた。字幕で、反対のデモに、負の含意をもたせた。

 字幕が適していなかったのを NHK は謝罪した。このことについてをどのように見なすことができるだろうか。五輪についてのテレビ番組や記録の映画が作られるさいに、文化や芸術がもつ二重性が関わってくる。他律性(heteronomy)と自律性(autonomy)の二重性だ。

 文化や芸術がもつ二重性がある中で、国のことをよしとするようなものを作るのであれば、他律性によるだけになる。二重性のあいだのつり合いをとれなくなり、つり合いを欠く。自律性を欠くことになる。

 他律性によるだけで自律性を欠くと、いまの現実のあり方に埋没してしまいかねない。自律性をもつようにして、いまの現実をとらえながら、それだけでよしとするのではなくて、現実を相対化して行く。かくある、またはかくあった現実(is)と、かくあるべき、またはかくあるべきではないの価値(ought)の二つを切り分けて行く。現実から価値を自動では導かないようにしたい。

 西洋の哲学でいわれる弁証法(dialectic)では、正(thesis)と反(antithesis)があり、それらが止揚(aufheben)されて合(synthesis)にいたる。国の言っていることをそのまま丸ごとうのみにするのは、正によるだけのものであり、正つまり合とすることだ。そこに欠けているのは、反をしっかりとくみ入れることである。

 文化や芸術に求められるのは、正と反がうまく止揚されてすんなりと合にいたるような肯定弁証法であるよりは、正と反がぶつかり合ったままでとどまりつづけて、なかなか合にはいたらないような否定弁証法のあり方だ。

 他律性と自律性や、正と反とのどちらもくみ入れて、つり合いをとるようにすれば、距離を保つことができる。他律性だけになったり、正つまり合としたりしてしまうと、距離が失われてしまう。距離が失われることによってまひがおきてしまい、国とのゆ着がおきて、国と一体化することになる。

 国とゆ着して、国と一体化してしまうことが、日本では少なくない。他律性によりやすくて、正つまり合としてしまいやすい。国とのあいだの距離が失われてしまいやすく、距離を保ちづらく、まひがおきる。その中で、いかに国とのあいだの距離を保つことができるのかがかぎになり、国のことを対象化することができるのかが求められる。

 国とのあいだに距離を保てずに、国との一体化がおきてしまうと、順応主義(conformism)におちいることになる。服従や同調することになる。まわりの空気を読む。和のしばりがはたらく。そんたくがおきる。

 芸術や文化のものをつくるさいに、順応主義におちいってしまうと、表はえがかれるけど、裏はえがかれない。表と裏がある中で、表だけをえがいても深く掘り下げていることにはなりづらい。裏に面白さがあるのだから、順応主義から脱するようにして、できるだけ裏を(も)とりこめるようにして行きたい。

 距離がゼロでまひしてしまうのでもなく、距離をとりすぎるのでもなく、よいぐあいの距離のとり方であることがいる。そこがむずかしいところだろう。距離がゼロでまひするのは、政治家をそんたくする役人のようなものであり、そこに個人の主体性があるとは言いがたい。

 きびしく見れば、政治家をそんたくする役人のような、個人の主体性がないようなものを作ったとしても、文化や芸術としての価値がそれほどあるとは言えそうにない。お上をそんたくをするのではなくて、それをしない部分が(も)あってはじめて、文化や芸術の価値がおきてくるものだろう。完全にまわりの空気を読んでそんたくするだけなのであれば、聞き分けはよいものの失敗だと言える。

 参照文献 『相対化の時代』坂本義和 『美学理論の展望』上利博規(あがりひろき) 志田昇(しだのぼる) 吉田正岳 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一