何かを反対するデモにたいしての、独断と偏見がうながされている―反対のデモへの排斥や排除がおきている

 東京五輪に反対するデモの参加者は、お金をもらっていた。NHK のテレビ番組では字幕でそう言われた。五輪にかぎらず、いろいろなことの反対のデモでは、参加者がお金をもらっているかのようにほのめかした。

 テレビ番組のなかの字幕がまちがっていたとして、NHK は謝罪した。NHK のテレビ番組に見られるまずさとはいったいどういったことだったのだろうか。五輪の反対のデモを、独断と偏見でとり上げたことにまずさがあったと言える。

 反対のデモについてを独断でとらえることで、偏見につながった。独断によるのだと、根拠として弱い。弱い根拠から主張をみちびいてしまうから、主張の確からしさが高くなくなる。

 なにかを主張するさいには、弱い根拠によるのではなくて、あるていどより以上に強い根拠であることがいる。根拠は建て物でいえば土台にあたるところだ。土台がしっかりとしていなくてぐらぐらとしていると、上に立つ建て物つまり主張がぐらつく。上に立つ建て物つまり主張よりも、その下の土台つまり根拠のほうが強くてしっかりとしていないとならない。

 弱い根拠である独断が、あたかも強いものであるかのようになり、それが教義(dogma、assumption)や教条と化す。教義や教条になると、うたがいを入れないものだとされてしまい、そこからまちがった偏見がみちびかれてしまう。確証の認知のゆがみがはたらく。肯定性の認知のゆがみだ。

 肯定性の認知のゆがみを和らげるようにして、確証だけではなくて、反証の可能性をくみ入れるようにする。東京五輪の反対のデモをどのように見なすのかでは、反対のデモでお金のやり取りが行なわれているから悪いとするのは、一つの仮説だ。NHK は、独断と偏見から仮説をみちびいたわけだが、その仮説はまちがいなく正しいとは言い切れそうにない。偏見からみちびかれた仮説なのがあるから、みんながよしとできるような正しい仮説(orthodox)とは言いがたい。

 みんながよしとできるような正しい仮説つまり順説ではないのにもかかわらず、あたかもそうであるかのようにして、NHK はテレビ番組の中で五輪の反対のデモを悪いものとしてあつかった。正しい仮説とは言えず、偏見からみちびかれた仮説(doxa)なのがあるから、その仮説の逆の仮説(paradox)をしっかりと見て行くことがあったらよかった。

 東京五輪の反対のデモについてを、わかったつもりにならないようにするために、NHK は自分たちの仮説を絶対化しないほうがよかった。仮説を絶対化しないようにして相対化したほうがよかった。仮説を相対化すれば、わかったつもりになることを少しは防ぎやすい。

 わかったつもりではなくて、本当にわかったのだと言えるには、そうとうにしっかりとした強い根拠から、主張をみちびいて行かないとならない。NHK は、弱い根拠から主張を導いてしまったために、独断と偏見におちいった。正しさがあまりない仮説を、あたかも正しい仮説であるかのようにした。偏見をうながしてしまった。たまたまそうしてしまったのではなくて、わざとねらって偏見をうながした疑いが低くない。それはいいかげんなおざなりの謝罪のしかたにあらわれ出ている。NHK は、倫理(ethics)として悪いのがあり、きびしく見れば倫理観がそうとうにおかしいと言える。社会関係(public relations)の点からいってまずさがある。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫反証主義』小河原(こがわら)誠 『超常現象の心理学 人はなぜオカルトにひかれるのか』菊池聡(さとる) 『入門 パブリック・リレーションズ』井之上喬(たかし)