二〇二〇年に開かれる東京五輪のマラソンと、それを見るためにマンションを買った人―期待(予測)と裏切り(反証)

 二〇二〇年の東京五輪で、東京都でマラソンの種目が行なわれることになっていた。それを見るために、東京都の都心にマンションを買った人がいるという。そういう人がいることをくみ入れなければならない。東京都知事はそう言っていた。

 五輪のマラソンのために東京都にマンションを買った人もいるのだから、その人のことをくみ入れて、予定通りに東京でマラソンの種目を行なうようにしたほうがよいのだろうか。

 まず、根拠となっている、五輪のマラソンのために、それを見ることだけを目的として東京都にマンションを買った人がいるのかが疑わしい。それだけのためにマンションを買うことはあるのだろうか。五輪のマラソンを見るというのは、マンションを買う理由の主たるものとはなりづらく、ついでの理由のようなものなのではないだろうか。

 マンションを買うさいに、五輪のマラソンを見るということは、必要十分条件だとは言いづらく、せいぜいが付随する条件の一つにとどまる。現実としてはそれくらいが妥当だと見られる。そうではなくて、マラソンを見るためだけに(そのためだけに)マンションを買うというのは、たとえそういう人がいたとしてもかなり特殊である。その特殊な人のことを意思決定にくみ入れることは合理的とはやや見なしづらい。

 マラソンのためだけにマンションを買った人を持ち出すのは、まずそういう人がいるのかが定かではないし、かりにそうした人がいるとして、どれくらいの数なのかがわからないし、かりに一定の数の人がいるとしても、それをもってしてマラソンの種目を予定通りに東京都で行なうべきだとはなりづらい。根拠としては弱く、そこまで(根拠と主張との)関連性が高くはないものだと見なせる。マラソンを予定通りに東京都で行なうようにするべきだという主張としては説得性はそう高くはない。

 東京都にマンションを買って、生で東京五輪のマラソンを見るのを楽しみにするのは、それを見るのを期待することだ。予測や見こみを持つことだ。東京で五輪が開かれるのだから、そこでマラソンが予定通りに行なわれる見こみは高く、予測が当たると思われたのが、ここへ来てそれがかないそうになくなった。予測が反証されることになって来た。たとえどのような予測や見こみであったとしても、それが一〇〇パーセントまちがいなく実証や確証されるとは言い切れず、現実には反証(否定)される見こみがあることを示しているかもしれない。

 参照文献 『打たれ強くなるための読書術』東郷雄二 『増補版 大人のための国語ゼミ』野矢(のや)茂樹 『反証主義』小河原(こがわら)誠