消費税と、合理性―合理主義の行きすぎ(教条主義)になっているおそれ

 消費税についての政策論がある。ふさわしい政策論のあり方はどういったものなのだろうか。

 政策論のあり方としては、合理主義によるものがある。合理主義は、客観の合理性になると危なさがおきる。

 消費税を減らしたりゼロにしたりするのも、合理性があるとはいえるけど、客観の合理性があるとはいえそうにない。

 消費税をよしとすることに、まったく何の合理性もないのだとはいえそうにない。消費税をよしとするのは、客観の合理性はないけど、主観の合理性はある。

 いまは、消費税の税率が一〇%になっていて、これはもっとも理想のあり方とはいえそうにない。ちゅうとはんぱである。くぼみ(niche)にはまっている。くぼみからだっするさいに、税率を上げるやり方と、下げるやり方の二つがある。どちらも、くぼみにはまっているのから脱しようとするものだ。

 一か〇かや白か黒かではないものとして見ると、消費税をよしとするのは、中間の灰色である。消費税を減らしたりゼロにしたりしようとするのもまた灰色である。

 灰色にならざるをえないのが消費税にはあり、一〇〇点か〇点かといったものではないだろう。消費税をよしとしても〇点とはいえないし、消費税を減らしたりゼロにしたりしようとするのは〇点だとはいえそうにない。どちらも、一〇〇点ではなくて、五〇点くらいだろう。

 主観の合理性にとどまるのが消費税についての政策だから、合理主義が行きすぎると、教義(dogma、assumption)や教条と化す。

 合理主義が行きすぎて、あたかも客観の合理性があるかのようにしてしまうと、いわば、消費税教のような宗教になってしまう。宗教では教義がとられることになる。安全神話や神風神話などの神話を信じる宗教になる。

 絶対の教義がとられると原理主義になるから、消費税の原理主義になる。合理主義のあり方だ。

 合理主義ではなくて、経験主義であれば、もっとゆるいものになる。消費税のことについては、主観の合理性しかないから、経験主義でやるのがふさわしいものだろう。

 経験主義でやるようにすれば、反証の可能性をくみ入れられる。合理主義だと、まちがいなく実証されるとしてしまう。実証されずに反証されることがあるから、それをくみ入れるようにしたい。

 反証の可能性がいっさい無いのだとするのは、政策論としてふさわしくない。合理主義が行きすぎると、反証の可能性がいっさい無いとしてしまうから、よいあり方ではなくなる。

 人間には、合理性の限界がある。限定された合理性しか持っていない。まちがっているおそれがある。消費税についてのことでも、まちがっているおそれがあり、完ぺきな合理性によっているのではない。反証の可能性をくみ入れておくのがふさわしい。

 天気でいえば、晴れの予報でも、雨がふることがある。晴れと言っていて、晴れたら、予報が実証されたことになる。晴れと言っていて、(言っていなかった)雨が降れば、予報が反証されたことになる。政治の政策でも、言われていたこととはちがうことがおきることがあり、反証の可能性をもつ。

 天気の予報のように、経済でも、景気が良くなるつまり晴れるか、景気が悪くなるつまり雨が降るかがある。晴れると言っていても雨がふることがあるように、経済が良くなると言っていても悪くなることがあるものだろう。言っていたのとはちがうことがおきたら、反証されたことをしめす。経済の政策では、それをくみ入れて論じるのがふさわしい。

 天気でいえば、まちがいなく晴れるのだとしてしまうと、合理主義の行きすぎになり、政策論としてはふさわしくない。あまりに合理性がありすぎると、かえって非合理や不合理に転じてしまう。合理性が一〇〇%といったようだと、かえって合理性を欠く。ほどほどの合理性で、晴れと言っていても雨がふる見こみをくみ入れたほうが、政策論としてはつり合いが取れる。合理性が五〇%くらいのほうが、つり合いを取りやすい。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『科学的とはどういうことか』板倉聖宣(きよのぶ)