日本の選挙に、正当性はあるのか―選挙のやり方がおかしい

 選挙の特別番組を、前もって行なう。そうしてほしい。ツイッターではそう言われていた。

 日本では、選挙が終わったあとになって、選挙の特番が行なわれる。それでは時すでに遅しである。やることの間(ま)が悪い。間抜けである。

 選挙の特番を事後になってからやるのが日本だが、それを事前にやることがいるのだろうか。事前にやったほうがよいのだろうか。

 安定や秩序の枠組み(paradigm)が日本の政治ではとられているから、その枠組みが第一になっている。

 いくら選挙をやるのだとはいっても、安定や秩序の枠組みが第一だから、それを乱すようなことはつつしまれる。選挙のときは、選挙が重んじられているようでいて、じっさいには選挙は二の次なのである。何々すべからずの、いろいろな制約(条件)がありまくりである。制約がありまくりだから、自由にのびのびとできづらい。

 選挙をやるのであれば、そこに関心が最大に向けられるのがよい。そうでないと、民主主義のぜんまいがしっかりと巻かれない。

 民主主義のぜんまいがしっかりとは巻かれず、選挙に関心が向けられない。あたかも、選挙など無いかのような(静かな)中で、選挙が行なわれているのが日本である。

 日常がケで、非日常がハレだけど、ハレというほどにはしっかりと選挙が行なわれない。ハレであるほどには大々的に選挙が行なわれない。ケの連続性の中で、その延長線上で、そのつけたりのようにして、選挙が日本では行なわれている。

 選挙をやるからには、これまでの日本でとられてきている、安定や秩序の枠組みをぶち壊す。それくらいのことがあってもよい。安定や秩序の枠組みは、差別を生んでいて、階層(class)の格差を生んでいる。差別や格差を固定化してしまっている。

 与党と野党とでは、いまは与党である自由民主党が一強になっている。一強と多弱になっているけど、それを変えることが選挙でなされるのがよい。与党と野党が、優と劣になっていて、その優の階層(与党)と劣の階層(野党)が、固定化されてしまう。それだと、選挙をやる意味があまりない。

 自民党は、いま中心化されていて、野党が辺境(周縁)にある。中心と辺境とのあり方を、変えて行く。辺境が中心になるようにして行く。選挙をやる意味はそこにある。

 報道機関がやるべきことは、辺境におかれている野党が、できるだけ中心に行けるようにうながすことだ。辺境が中心に行けるようにあと押しをしないとならない。

 辺境にある野党が、中心に行くのを、おしとどめる。中心に向かわせないようにする。辺境が中心に向かうのを、いかにはばむことができるかが、日本の報道機関の仕事になってしまっている。やるべきこととは逆のことをやっている。

 動機づけ(motivation)や誘引(incentive)を見てみると、日本では、選挙をしっかりとやることへの動機づけがうすい。それよりも、安定や秩序の枠組みを保つことへの動機づけが強い。その動機づけが強いから、差別や階層の格差が固定化されてしまっている。

 せめて、可能性としては、差別が無くなったり、階層の格差がなくなったりすることが見こめるのでないとならない。可能性が見こめて、期待できるためには、あるていどより以上の人が、選挙をしっかりとやったり、政治に関心を向けたりすることがいる。合理の無知や、合理の棄権を改めることがいる。

 事前の、可能性があるときには、力が入れられない。事後の、(結果が出たあとの)必然性になったときに、さわぎ出す。必然性になってからさわぐのだと、安定や秩序の枠組みをぶち壊せない。

 まだ結果が出るまえの、事前の可能性のときに、うんと力を入れるようにして、そこに注力することがいるけど、それが禁じられているのが日本である。事前の可能性のときに、うんと力を入れるのでないと、民主主義にはならない。日本は、民主主義をやる気がない。民主主義をしっかりとやる動機づけが低い。選挙のやり方にそれが見て取れる。

 参照文献 『政治学入門』内田満(みつる) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『社会的ジレンマ 「環境破壊」から「いじめ」まで』山岸俊男現代思想を読む事典』今村仁司編 『論理的に考えること』山下正男 『民主主義という不思議な仕組み』佐々木毅(たけし) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『デモクラシーは、仁義である』岡田憲治(けんじ)