五輪の開催と、既成事実に弱いこと―自然主義の誤びゅう

 東京都で夏に五輪がひらかれはじめている。もうすでに五輪ははじまっているのだから、それに乗っかるようにして、応援したり楽しんだりするべきなのだろうか。

 日本人は既成事実となっていることに弱い。その弱みにつけこむようにして行なわれているのが五輪だと言えそうだ。

 あらかじめやることが決められていたのが五輪だ。そこに予期せぬこととしておきたのが新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染の広がりである。予期せぬことであるウイルスへの感染がおきたが、五輪をひらくことが既成事実になっていたために、それが重みを持った。中止にはならなかった。一年ほど延期されたのはあったものの、ひらくことが決められることになった。

 既成事実が重みを持ったことでひらかれることになったのが五輪であるかもしれない。五輪がひらかれはじめたことによって、ひらかれはじめたこともまた既成事実になり、それが重みをもつ。五輪をひらくことは理想といえるような全体の最適(global optimal)とはいえず、部分の最適(local optimal)にとどまっていて、部分の最適のわなにはまっているものかもしれない。

 じっさいのところ、五輪がひらかれはじめることによって、日本人がもつ既成事実に弱いところがあらわれ出ている。

 せっかくひらかれているのだから、五輪を応援したり楽しんだりすることは悪いことではない。それは悪いことではないのはあるものの、すべての人がそうしなければならないものではないだろう。

 自由とはいったい何かはとらえづらいものではあるが、一つにはそこに強制があってはならないのがある。五輪を応援したり楽しんだりするかどうかは、人それぞれの自由によることなのだから、そこに強制がないようにして、いろいろな自発のあり方がよしとされるほうがよい。

 哲学の新カント学派による方法二元論で見てみられるとすると、事実と価値を分けることがなりたつ。五輪がひらかれはじめたのは、それは何々である(is)の事実に当たる。そこから何々であるべき(ought)の価値を導いてしまうと、何々であるから何々であるべきを導く自然主義の誤びゅうになる。

 あくまでも五輪がひらかれはじめたのは何々であるの事実であるとはいえるが、それが何々であるべきの価値であるとは言い切れそうにない。大々的に報道で五輪のことが報じられているのがあるから、五輪がひらかれはじめているのは実証としては正しいことだろう。そのことがよいことなのかそうではないのかは、人それぞれによってちがったとらえ方がなりたつ。

 実証としては五輪はひらかれはじめているのは確かだけど、そのことをもってして、それがよいことなのだとは言い切れないのがある。いくら事実についてを知ったとしても、それと価値とはまた別の話だ。事実から価値は自動では導かれないから、価値についてはまた別のこととしてとり上げることがいる。

 完全に事実と価値を切り分けるのはむずかしいのがあり、事実の中に価値が入りこむ。ただの無味乾燥な事実として五輪がひらかれはじめたことをとらえるのはできづらいのがあり、そこに何らかの価値が入りこむのがある。

 価値についてをとり上げて見てみると、五輪がひらかれはじめたことがまちがいなく絶対によい価値をもつとは言えそうにない。ゆいいつにして絶対の最高価値はなりたちづらいから、さまざまな価値のとらえ方があることになり、いろいろな見なし方がなりたつ。

 事実と価値を切り分けて見るようにしたさいには、たとえ五輪がひらかれはじめたことの実証による事実があるからといって、そこから自動でそれがよい価値を持つものだといったことが導かれるのではない。絶対によい価値をもつといったようには価値を強制することができないのがあり、そこには自由があることにならざるをえない。

 こうであるべきの当為(sollen)とはちがってこうであるの実在(sein)においては、人それぞれによってさまざまな見なし方のちがいがあるものだろう。五輪がひらかれはじめたのがまちがいなく正しかったのかどうかは実証することができづらい。反証される見こみが少なからずある。五輪がひらかれはじめたことについて人それぞれでいろいろな見なし方がなされていることについては、あるていどは実証(確認)することができるだろう。みんなが完全に同じ一つの見かただけをしているのではないからである。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦反証主義』小河原(こがわら)誠 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『絶対幸福主義』浅田次郎 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)