五輪と祭り―五輪よりも祭りのほうがより重要だ

 東京都で夏に五輪がひらかれはじめた。もうひらかれているのだから、五輪を楽しむべきだ。応援するべきだ。そう言われているのがあるが、そのようにするべきなのだろうか。

 五輪を楽しんで応援するのは、娯楽の祭典であることによる。祭りである。

 祭りの点で見てみられるとすると、五輪をひらくことよりも、反五輪のほうがよりその性格が強い。五輪をひらくよりも、五輪を中止にする反五輪のほうが、祭りとしての機能はより高い。

 いろいろなものを隠す大きなフタとしてはたらいているのが五輪だ。五輪をひらいてしまうと、大きなフタをすることになるから、いろいろなことが隠されてしまう。

 神話(myth)のようなはたらきをしているのが五輪だろう。神話によっていろいろなものを隠すことになる。いまは新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているのがあり、それによって神話の化けの皮がはがれてきている。いろいろなものごとを隠し切れなくなっているのだ。

 娯楽の祭典だから、それを応援したり楽しんだりすることができるのが五輪だが、あくまでも日常の延長線上にあるものにとどまる。日常であるケの延長線上にあるものだ。日常にある色々なおかしいことを改めて行くような力をもつのではない。

 より祭りらしい祭りといえるのが反五輪だろう。祭り(carnival)では、日常の世界のあり方が反転されることになる。日常においてわきに置いやられている辺境者(marginal man)が活躍することになる。ひごろの日常でたまっている汚れを掃除するのが辺境者だ。

 ただたんに五輪をひらいただけでは、日常でたまった汚れが外に吐き出されるのだとは言えない。汚れがたまりつづけたままになってしまう。大きなフタがされて汚れがあることが見えなくなる。新しい汚れが積み重なってしまう。

 なにが大事なのかといえば、五輪ではなくて祭りだといえるとすると、五輪をやらなくても祭りをすることはできる。五輪をやらなくても、反五輪のほうがむしろ祭りらしい祭りだ。

 日本では権威主義が強まってしまっているので、汚れがたまりつづけることになっている。民主主義では汚れをこまめに小出しに外に吐き出しつづけることが行なわれるが、日本の政治ではそれが行なわれなくなっている。

 いわば小さい祭りを定期的に行なうのが民主主義だろう。それによって汚れをこまめに外に吐き出して行く。小さい祭りは、やり直し(redo)の機会が豊かにあることである。選挙だけにかぎらず、いろいろなやり直しの機会が整っていて、それらを活用できるのでないとならない。選挙では投票率が低いことが多いから、きちんとぜんまいが巻かれていないのがある。民主主義のぜんまい巻きなのが選挙だと言われている。

 日本の政治では、やり直しの機会がとぼしくなっている。権威主義が強まってしまっているのがあり、うわべの見せかけの祭りしか行なわれていない。よりつっこんだ祭りらしい祭りが行なわれていないので、汚れが中にたまりつづけている。汚れが外に吐き出されていない。

 権威主義の危険性は、どかんといっきに大きく汚れが外に吐き出されてしまうことだ。日本ではその危険性が高まっていると言えるだろう。ただたんに五輪をひらくだけでは、大きなフタをすることになるから、汚れが外に吐き出されることにはならない。

 日本の政治ではいぜんとして汚れが中にたまりつづけていて、それが外に吐き出されることが見こめない。そこで求められるのが祭りであり、それに当たるものの一つが反五輪だと言えるだろう。五輪はひらかれるよりもひらかれないほうがむしろ祭りらしい祭りだといえて、いろいろな悪いものがあばかれた見こみがある。

 参照文献 『寺山修司の世界』風馬の会編 『民主主義の本質と価値 他一篇』ハンス・ケルゼン 長尾龍一、植田俊太郎訳 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『政治学入門』内田満(みつる)