五輪をひらくことの自明性―完全に自明だとまでは言えない

 やるからには、五輪に出る選手を応援するべきだ。テレビ番組の出演者はそう言っていた。

 東京都で夏にひらかれる五輪についてを、それが行なわれるからには、応援しなければならないのだろうか。

 ひらかれることになっているのが五輪なのはたしかだが、そのことについてを改めて見てみると、やることになっているからといったほどには、みんながよしとしているとは言えそうにない。完全に自明なことだとまでは言えないのがあり、批判や反対の声が少なからずおきている。

 それをやるからにはと言うからには、それが多数の人からよしとされていることが最低でもいるものだろう。多数の人からよしとされていないと、一人勝ち型だとは言えない。五輪は一人勝ち型になっているとはいえず、論争型になっている。

 多くの人がそれについてはい(yes)としているのであれば一人勝ち型だ。はいといいえ(no)が分かれているのが論争型だ。五輪をひらくことについては論争型になっているのがあるので、そのことを無視することはできづらい。

 いったんひらいてしまえば、五輪が一人勝ち型のようになる見こみはないではない。ひらかれることになって、そのさいちゅうにみんなが五輪にくぎ付けになって夢中になれば一人型のようになる。五輪が最高価値をもつ。

 いまの時点では、五輪がひらかれるすぐ手前(事前)であり、その時点では五輪は論争型になっている。いまのところは五輪は最高価値をもつものだとは言えない。

 いったん五輪がひらかれれば、みんなが五輪にくぎ付けになって、あたかも五輪が最高価値をもつものであるかのようになる。そうなる見こみはあるものの、そうならないこともありえる。最高価値の没落となることがある。

 最高価値をもちやすくて一神教のようであるのが五輪だ。まちがいなくそれがなりたつとは言い切れなくなっていて、最高価値が没落して価値の多神教となることがある。五輪が最高の価値をもつのではなくなり、よしとするのだけではなくて批判の声がおきてくる。

 神がいるとしているのが五輪だ。神は死んでいない。哲学者の F・ニーチェは神の死を言ったが、神が死ぬことになれば、最高価値が没落して価値の多神教になる。

 いったん五輪がひらかれれば、神が生きているといったことになって、みんなが五輪にくぎ付けになって夢中になることはあるかもしれない。そのさいの神は、ほんとうの神ではなくて、つくられた虚構のものであるのにすぎない。ねつ造されたいつわりの神である。

 じっさいには神はすでに死んでいるのがあるが、それがあたかも生きているかのようにされる。神が死んでいないかのように見せかけるのが五輪だろう。じっさいには神は死んでいるが、それが死んでいないで生きているかのようによそおうのが五輪であり、現実のあり方とのあいだにみぞがひらく。

 いったん五輪がひらかれれば、現実とのあいだにひらいているみぞにフタがされて、みぞがあることが隠ぺいされる。いくつもの穴があいていることが隠される。五輪がひらかれているさいちゅうにフタを引きはがしてとり除くのは難しいのがある。あたかも一人勝ち型であるかのようなはたらきを五輪がもつからである。

 参照文献 『社会問題の社会学赤川学 『情報生産者になる』上野千鶴子現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司