犯人と、安倍元首相を、比べてみる―何が良くて何が悪かったのか

 安倍元首相を殺した犯人がいる。それと安倍元首相とを比べてみると、どういったことが言えるだろうか。

 犯人と、安倍晋三元首相との共通点は、どちらもが虚無によっていた。虚無主義(nihilism)だった。どちらもが、悪の力によっていたのがある。

 二人の相違点としては、犯人は、自由主義(liberalism)における完全義務に反することをやった。安倍元首相は、完全義務に反することまでは(いちおう)やらなかった。

 人を殺すのは、完全義務に反する。法の決まりではそう定められていて、それをやぶったのが犯人だ。その点で、犯人のやったことは良くなかった。安倍元首相は、そういう点での悪いことはやらなかった。

 何が良いことで、何が悪いことなのか。良いことと悪いことがあって、そのあいだの線がある。あいだに引かれている線が揺らいでいる。良いことと悪いこととの区別ができづらい。はっきりと線を引きづらくなっている。

 いまの日本では、自由主義がこわれてしまっているから、完全義務だけではなくて、ほかのいろいろなよけいな義務がかされてしまっている。個人の自己決定権が損なわれている。

 自由主義であれば、最低限の義務だけによる。義務の数が少ない。日本では、義務の数が多くなっていて、個人が自由に決めてよいことまでもが、集団によって決められてしまっている。集団の決まりに、個人が従わなければならなくなっている。

 犯人のようには、安倍元首相は、完全義務には反しなかった。そこが犯人と安倍元首相との相違点だが、不完全義務はやぶりまくったのが安倍元首相だろう。

 不完全義務は、それに反したとしても罰せられることはないが、できればやるのがのぞましいことだ。努力の義務(目標)である。

 完全義務のほうが重くて、不完全義務は軽いとはいちがいには言い切れそうにない。ときには、不完全義務がすごく重くなることもある。

 権力を分散させずに、権力を集中させて、一強にした。支配を効率よくきかせられるようにした。それによって、適正さが損なわれた。抑制と均衡(checks and balances)がかからなくなった。安倍元首相の政治によって、そうなったのがある。

 適正さが損なわれたので、罪と罰のつり合いがとれなくなった。権力者がいくら悪いことをやっても、罰せられなくなった。罪と罰のつり合いの、応報律がきかなくなったのである。

 適正なあり方になっていれば、社会状態(civil state)になっている。日本の国では、それが壊れているところがあり、国の中が自然状態(natural state)になっているところがある。

 自然状態では、万人の万人に対する戦い(the war of all against all)がおきつづける。自分がもつ、自己欺まんの自尊心(vain glory)をかけて、他と戦いつづけて行く。自分が死ぬまでその戦いはつづく。

 自己欺まんの自尊心につき動かされて、政治の活動をやっていたのが安倍元首相だった。それで社会状態をこわしてしまい、自然状態になるのをまねいた。政治で分断がすごく深刻になってしまい、議会(国会)がそれまでよりもいっそう機能しなくなった。意図して議会をこわしたのが安倍元首相だったのがある。

 虚無や虚栄心によっていて、理性の反省がまったくといってよいほどになかった。安倍元首相の政治の活動には、それが見られた。そこにはかなりの危なさがあったのがあり、日本の国が悪い方向に向かってつっ走って行くのがおし進められた。きびしく見ればそう見なせる。

 自由主義がこわされてしまったので、特権化や差別がおきて、それが固定化した。政党では、与党である自由民主党が特権化されつづけている。自民党に甘いあり方がつづいている。

 普遍化できない差別を無くして行かないとならないのが自由主義である。それをなくすどころか、差別による秩序を保ちつづけているのが、自民党のあり方である。

 犯人のように、たとえ完全義務に反するような、人を殺すことはやっていないのだとしても(その点では良いけど)、だからといって、悪いことをまったくやっていなかったとはいえないのが安倍元首相だろう。

 犯人は、悪そのものだとか、悪人そのものなのかと言えば、そうとは言い切れず、生い立ちを見てみると、いろいろに苦しんだところがあったようである。人を殺すことをやったのは悪いのは確かだが、罪を憎んで人を憎まずと見なすことができる見こみがある。

 何が良いことで、何が悪いことなのかの、線を引きづらいのがあり、その中で、安倍元首相は政治においていろいろに悪いことをやっていた。いろいろな不祥事をやっていた。

 客観に、または本質に、安倍元首相がいろいろに悪いことをやったとは言い切れない。まちがいなく悪かったとまでは言い切れないが、見かたによっては、いろいろに悪いことが行なわれていた。良いことと悪いこととのあいだに、しっかりと線を引きづらい中において、いろいろに悪いことが行なわれていて、そこにやっかいさがあった。

 悪いことがあっても、それを悪いことだとはさせないで、問題化させない。問題化することを、悪いことだとする。批判することを、悪いことだとする。かりに、悪いことが、穴だとすると、その穴をさし示すことを、悪いことだとする。穴にフタをしつづけて、穴を見えなくさせるのが、良いことだとする。

 穴を作って、穴にフタをするのは与党で、穴をさし示すのは反対勢力(opposition)だ。穴を作るのは、悪いことをやることだけど、その穴にフタをするのは、良いことだとされてしまう。穴をさし示すのは、穴が悪いことがもとにあるけど、穴が悪いのではなくて、穴をさし示すのが悪いのだとされてしまう。

 安倍元首相そのものが、穴のフタのようなものだと言えるところがある。穴にフタをしつづけるために、安倍元首相は政治の活動をやりつづけて、表舞台に立ちつづけていた。安倍元首相が、自分でになっていたところのものである、穴をおおうフタを、いまこそ引っぺがして、安倍元首相にたいするきびしい批判をやって行く。いろいろな穴をさし示して行く。

 安倍元首相が生きているときから、権力者にたいする批判をもっとしっかりとやっておくべきだったが、せめて、いまからでもそれ(安倍元首相へのきびしい批判)をやって行くべきだろう。

 良いことと悪いこととのあいだに線が引きづらくなっているのはあるけど、その中で、これが悪いことなのだとして、いろいろな穴をさし示して行くことが自由に行なわれるのがのぞましい。安倍元首相は、穴をさし示すことを悪いことだとして、穴にフタをして見えなくさせるのを良いことだとしていたから、それがとくに悪かった。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『悪の力』姜尚中(かんさんじゅん) 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『社会問題の社会学赤川学 『現代倫理学入門』加藤尚武法哲学入門』長尾龍一