国葬と、認識論―国として、安倍元首相についての認識ができていない

 韓国で、安倍元首相の死がいたまれた。死を追悼する式が行なわれた。旧統一教会がその式をもよおした。

 韓国での追悼の式には、アメリカのドナルド・トランプ前大統領や、トランプ政権の政治家などが、言葉をよせたという。

 日本でよりも先に、韓国で、旧統一教会が、安倍晋三元首相の死をいたむ式をあげた。日本が国葬をやるよりも、韓国の新宗教のほうが、動きがより早かった。日本で国葬をやるのは、二番煎じになってしまう。

 安倍元首相の死をいたむ式に見受けられることとはいったいどのようなことだろうか。そこにどのようなことを読みとれるだろうか。

 お葬式を行ない、安倍元首相をまつり上げたのが、韓国の新宗教だ。日本でも、国葬をやることで、それとまったく同じことをやろうとしている。

 韓国の新宗教や、日本の国に、いったい何が欠けているのかといえば、安倍元首相の死をいたむ気持ち(の強さ)ではない。死をいたむ気持ちは、韓国の新宗教にも、日本の国にも、それなりにはあるだろう。

 死をいたむ気持ちが欠けているのではない。むしろ、国として、日本は死をいたみすぎているくらいだ。死をいたみすぎているのは、日本では精神主義やこころ主義が強いからだ。精神や心が過剰なのである。日本では、なにかと、精神や心をもち出しすぎだ。心でっかちである。

 何が欠けているのかといえば、安倍元首相についての認識が欠けている。認識が欠けているのがよく見てとれるのが、韓国の新宗教だ。安倍元首相がどういった政治家だったのかを、韓国の新宗教がまともに認識しているはずがない。

 韓国の新宗教は、日本がよい国になってほしいと思っているのではない。日本の国がだめになってもよい。悪くなってもよい。日本の国のことなどどうでもよいのだとしているのが、韓国の新宗教だろう。

 日本は悪い国なのだから、ばつを受けなければならないのだとしているのが、韓国の新宗教だ。たしかに、歴史において、日本は悪いことをやったのだから、それを十分に反省しなければならないのはある。日本は、かつて植民地主義によっていて、他の国を侵略したのがある。

 韓国の新宗教にたいして、こうせよとかああせよとかと要求をして、期待をしてもしようがないかもしれないが、日本の国にはそれをつきつけたい。日本の国は、安倍元首相についての認識が欠けている。認識が欠けている中で、国葬をやろうとしているのだ。それを改めて、国葬をやるのではなくて、安倍元首相についての認識をもつようにしなければならない。あさい表面の認識を、深めて行かないとならない。

 認識が欠けているのを深めて行くようにすれば、安倍元首相が政治家としていろいろな悪いことや不正をやっていたことがわかってくる。政治家として悪かったところがいろいろに見えてくる。

 国葬をやるさいに、あたかも安倍元首相が政治家として一〇〇点の満点だったかのようにされることになる。一〇〇点にされるのは、認識が欠けているからである。認識を深めて行けば、点数がどんどん引き下がる。点数をどんどん引き下げて行かないとならない。点数が引き下がらなければ、認識を深めたことにならないのである。

 参照文献 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司ポストコロニアル 思考のフロンティア』小森陽一 『日本人はなぜ存在するか』與那覇潤(よなはじゅん) 『ナショナリズム(思考のフロンティア)』姜尚中(かんさんじゅん) 『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』長谷川眞理子 山岸俊男